ども、けろです。
前門の就活、後門の研究みたいな修羅道的2ヶ月を過ごしていたらブログ更新が滞ってました。タスクが増えると省エネ運転になる自分の人生観が現れてて草生える。
前回の投稿の「概論」は月末の修士論文中間発表を終えたあとに息をしていたら書きます。許してください。
タイトルにもあるように、今回のブログは「女子力」とかいう誰も得しない呪詛についてです。
以下、目次です。
1.「女子力」ってなに?
2.規範の標準化・規格化
3.規範の性別化
1.「女子力」ってなに?
まぁ考察と批判に入る前に、そもそも「女子力」とかいう抽象的な言葉が何を指すのかを明確にしましょう。
マイナビウーマン先輩から引用すると
・性格面
①気配りができる
②家庭的であったり、掃除・洗濯ができたり、子どもの面倒を見るのが上手)
③言葉遣いが丁寧
④几帳面
⑤聞き上手
・行動面
①気が利く
②食べ物を取りわける
③料理(煮物、魚が捌ける、家庭料理、スイーツ作り)が得意
④身だしなみに気をつけている
⑤自分磨きをしている
女子力が高い女性になる方法&女子力高い系男子の攻略法|「マイナビウーマン」
もうなんていうか、この時点で大きなお世話の役満感があるし、人を鏖殺させる劇薬のオンパレード感が否めない。すごい(すごい)みたいな感想しか出てこない。
ちなみに一部しか引用していないので、気になる人は上記のリンクに飛べばさらに詳細な地獄が待ち受けているので是非深呼吸してからジャンプしてみてください。
さて、「女子力」を批判する上でとても面倒なことがあります。
それは「一見相手を褒めるための言葉」として用いられる、ということ。
料理がうまい人に向けられる「女子力高いね!」は「料理が上手いね」という意味が含まれているし、飲み会でサラダを取りわける人に使われるときは「気が利くね」という意味に変わる。
スキンケアや自分磨きを欠かさない人に対しては「美意識高くてすごい」という風に変換されるし、とにかく「褒める」目的で使われることが多い。そしてそれ故、それに対して不満げな顔をしたり反論したりすると「えっ、褒めたのに」とか「何で」みたいな顔をされることが多い。
とりあえずこのブログでは、そういう顔に対して顔面シュークリームを投げる勢いで「女子力」という言葉を分解して、どういう問題点があるのかを列挙してみようかと。
2. 規範の標準化・規格化
「女子力」の後ろにつく形容詞は基本的に「高い・低い」です。
つまりそこには、「女子力がある」とされる何かしらの不可視の基準があり、その見えざる基準に基づいて社会・第三者は判断をしているわけです。
まー何が一番めんどいって、その「基準」の根拠がどこにも存在しない。文献で示されているわけでも、科学的なソースがあるわけでもない。つまり、社会生活の中でどこからともなく自然に発生し、何かはよく分からないけどそれが人様を判断する基準として用いられているという、UMAばりに存在が見えないのが「女子力」のややこしいところ。
そんな、勝手に作られた「こうあるべき」的イメージを正義の鉄槌の如く振り下ろされたら、こっちとしては「知らんがな」以外の感情はないし、「めんどくせえ」としか思わない。別に料理ができようが気配りができようがオシャレだろうが、第三者が勝手に「高い・低い」と評価される筋合いなんてない。
生きたいように生きていたらある日突然友人や知人が「女子力低いよ〜」と煽ってくる地獄っぷり。
居酒屋でビール飲んでたら「女子力低いね〜おっさんみたい」って言われたり、カシスオレンジ頼んだら「可愛いね〜女の子っぽい」って言う人は、おっさんの体液がビールで女性の体組成の60%がフラペチーノでできてると思ってそう。
別に誰が何を飲んでようとその人の勝手だし、どういう振る舞いをしてどういう生き方をするかに関して「高い・低い(=偉い・だらしない)」といったUMAレベルの基準を用いて判断すること自体、醜悪という他ないと思うんですよ。
3. 規範の性別化
もうこれが「女子力」を「呪い」たらしめている張本人といっても過言ではないが、「『女子』力」の名の通り、語句に性別が使われてしまっている。
要は、「女子力」という語句が広範に指す様々なもの(料理、気遣い、服装、家庭的etc)が「女子の所有物」という前提に立っており、「女子はそれらの特性を備えていて当然」であり、「それを高めるための行動に善処すべき」であるという、半ば規範にも似た価値観をも内包していると個人的には感じるわけです。
つまり「女性」として生まれてしまったが最後、その人たちは社会や第三者が期待する「女子のあり方(=女子力が高い人)」という像をあてがわれてしまうという。圧倒的地獄。
そしてその地獄の業火は、女性のみならず男性にも降りかかってくるという。
私は個人的にスキンケアが好きで、野菜ジュース飲んだりサプリメント買ったりするし、パックは割と毎日するし美容液も使うんですが、これを他人に言うと、待ち受けている評価は「女子力高いね」「女の子より女の子じゃん」という言葉の数々。
「(語句が指し示す)規範・価値観の女性化」は、それを女性中心のものと固定化してしまう節があるし、男性は必然的に周縁に位置付けられてしまう。
だからこそ女性が中心から離れれば「だらしない」と烙印を押され、男性が中心に近づけば「女の子みたい」とレッテルを貼られる。
この構図に無自覚な人が多いから、「女子力像」は悪意なしに再生産されるし、褒め言葉の文脈で用いられてしまう。
というか、「料理・掃除・育児ができる」に関しては女子云々の前に生活を送る上で必要なスキルであるし、インスタにオシャレなお店の料理を載せるのもただの承認欲求の充足だし、スキンケアを頑張るのだって綺麗になりたいという理想的な自己像の追及でしかない。要するにそこに他者からの恣意的な(しかも性別という軸を用いた)評価なんて全然関係ないし、「うっせえ」としか返し方が見つからんわけです。
以上、特に生産性もとりとめもない話を長々と綴りましたが、要するに上記の長文は、私が「私(という個人)」ではなく「男・女」という性別という枠組みに基づいて評価が下されることに対するモヤモヤというか、名状しがたい不満の表出です。
菊地夏野さんという方が行った実態アンケート調査、およびそれに基づく論文「女子力とポストフェミニズム」で述べられているように、「女子力」という言葉を肯定的に捉えている人も多くいます。なので一概にこれが害悪しかない、と断ずるのは危険であることは重々承知していますが、私個人の見解として、「女子力」という言葉は呪い以外の何物でもないと思っていますし、それを自覚して以降は一度も使った記憶がありません。
他の言葉で代替できるなら、そっちを使った方がいいし、そっちの方がみんなが幸せになれるのでは…と常に思っています。
「女子力」の代わりに「生活力・美意識・心配り」といった言葉が使われるようになることを祈っていますという、これまでの滲み出る殺意を洗い流す爽やかな言葉とともに、今回の更新を締めくくりたいと思います。
以下、菊地夏野さんの論文へのリンクを貼ります。気になる方は是非。