ゼロから始めたディベート史Ep.8『模索の1年』

 ども、けろです。

 どうやら前回のブログ更新から1ヶ月経っていたようです。

 「コロナ期だし普段と違うことするぞ」と意気込んでいた5月のやる気はどこへいったのか、6月は気付いたら溶けていました。2020年がもう半分終わったってまじですか。明日から後半戦が始まるっていう現実、ちょっと何言ってるかわからない。っていってたら多分12月くらいになるんですよね、毎年のことですが。

 

 この私的ディベート史、去年の3月くらいに書き始めたんですよね。自分でもまさか1年以上もかかるとは思ってもいませんでした。残念ながらまだ終わりませんが……。

 というわけでEp.8です。予定ではEp.9で終わりますが、1回分寄り道をする予定なのであと2回で終わります。もうちょっとだけお付き合いください。

 

 

 以下目次です。

 

Ep.8:院2年春〜冬

『模索の1年』

0. はじめに

1. 後輩との挑戦

2. 芸人脱出

 

0. はじめに

 最近コロナの影響で、世間はすっかり様変わりしましたね。どこにいってもマスク着用が必須だったり、入場制限があったりと、経済も生活も、ガラッと一変してしまったのを見ると驚きますが、同時に社会全体の力強さみたいなものも感じます(KONAMI)。

 自分が働いている業界も大きな影響を受けましたし、ここからが正念場というか、色々と再構築していく期間だと思います。

 ディベート界も同様に、後期になると大学側もオフラインでの講義を再開したり、施設の貸し出しもできるようになると思います。

 せっかくこれだけオンラインディベートが普及していますし、オンライン大会も引き続き、と思いますが、やっぱり個人的にはオフライン大会の「熱量」も恋しいので、少しずつオフライン大会も開催できればな、と感じています。

 まぁ私自身はもう大会運営からは遠のいた身ですので、現役の方々が作っていくこれからのディベート界を見守りながら、うまく環境に順応できればと思います。

 

1. 後輩との挑戦

 さて、季節は前回の院1年の冬〜春から数ヶ月、院2年の5月。

 個人的にはこの時期が一番忙しいというか、充実していました。というのも5月の頭に大学院での研究計画書の提出があって日夜あぁでもないこうでもないと研究室で頭を抱えながら、同時進行で就職活動を進めていて、その合間を縫う形でディベートをしていたからです。

 当時の自分は何を血迷ったのか「就活で一時的におやすみする」という選択肢を横浜湾に投げ捨てたようで、就活シーズン真っ只中にも3/5の大会に出るという暴挙に出ていました(前回記事のディベートのすすめ、The関西、今回のNDOです)。

 これはこのブログを読んでいる方への教訓なのですが、絶対に真似しないでください。大会終わりの2日後に大事な企業の二次面接があるとかどう考えても体力と精神面に負担がかかるので。

 

 5月中旬に名古屋で開催されるNDOに青学とICUの後輩と参加してきました。今働いている会社の面接を数日後に控えた中での大会、ヒリヒリ感がタマラネェ()。

 普段から(今も)仲良くしている青学の後輩と、話してみたいなぁと思っていたICUの後輩との大会は、練習期間からめちゃくちゃ楽しかったです。練習頻度も結構密に組んで、通話練習やプレパ練も重ねて挑んだので、結構手応えがあるチームだったなと思っていました。

 前日の金曜日に名古屋に乗り入れて、提供ジャッジを引き受けてくれた(これまた仲良しの)学習院の後輩と4人で名古屋飯を食べて、エアビーの宿でワイワイして。遠征大会の良さをぎゅぎゅっと詰め込んだ感じがして感無量でしたね。

 

 大会の結果としては2勝2敗、バブルでのブレイク落ちでした。

 先輩としてチームをキャリーできなかった不甲斐なさと悔しさは、いつ味わっても苦いものです。キャリアの大半が後輩と大会に出ていた自分にとってはいつものことかもしれませんが、それでも自分を慕ってくれる後輩と練習して、目標を設定して挑んだのにそれが達成できないというのは、やっぱりしんどいです。

 セルフブレイクナイトで入った居酒屋、世界の山ちゃん手羽先を食べながらそんなことを考えていました。

 「頑張ったんだから結果が伴わなくてもいい」というのはある種正しいというか、大切な考えです。目の前の結果に執着せず、その過程を重んじながら次の目標に挑戦するというのは、大会が多く開催される日本のディベートサーキットではどこかに留めておきたい価値観だとも思います。「結果が全て」と、それまでの過程を蔑ろにするようなことはしたくないですし、「結果至上主義」に陥っている後輩には励ましの言葉をかけたいと思っています。

 ただそれでも、割り切れないモヤモヤ感みたいなものは残ります。

 特に院2年ともなれば、キャリア6年目になります。経験年数と実力が直接的な相関はないというのはわかっていますが、それでもどこかで「もう◯年目だしな……」という自責の念も山積します。ブレイク落ちには慣れていますが、後輩と出る大会で結果を残せないと、彼ら彼女らに要らぬ罪悪感を与えてしまうのではないかと思ってしまいます。引っ張れなかったのは自分の責任なのに、「◯◯先輩をブレイク落ちさせてしまった」と悩ませてしまうのは、結構しんどいものです(そもそも自分はその域に達するほどの実績を残していませんが)。

 

 というのを、数ヶ月後のQDOでも味わいました。

 5月のNDOで提供ジャッジを引き受けてくれた学習院の後輩と組んで出場し、バブルまでいってブレイク落ち。そこそこ練習していたし、仲の良い後輩との遠征で気分も高まっていたので、その大会で結果を残せなかったのはやっぱり悔しかったです。

 勝った大会はもちろんですが、負けた大会ってめちゃくちゃ記憶に焼き付くんですよ。どのサイドで誰が相手で、どのモーションでどんな話をしたかまで、結構鮮明に。

 

 でもやっぱり、遠征大会はクッッッッソ楽しいです。チームやジャッジ、仲の良い人達と前入りして現地のうまい飯食べたり観光したり、大会終わりに居酒屋でどんちゃんしたり。それに結果が伴えば最高って話ですね。

 QDOも、金曜日に前入りして(トレイニージャッジとして参加しにきていた)青学の後輩と一緒に福岡観光したのもめちゃくちゃ覚えてるし、楽しかったです。

 

2. 「芸人」脱出

  そんなこんなで、2018年の院2年のキャリアは下火というか低空飛行というか、今一つパッとしませんでした。

 大阪府立大の先輩と組んで出場したJBPもバブルでブレイク落ちで、分かりやすくいうなら「スランプ」というやつなのかもしれませんが、それってそもそも結果をバンバン残している人がパタリと結果を残せなくなることを指すのかなぁと思うとそれも適切な表現じゃない気がして、単に自分の実力が常にブレイクとブレイク落ちの当落線にい続けているだけなんだなぁと。

 バブル落ち芸人、もといQF芸人(*1)として彷徨っていた自分は、学生最後のBP大会を、と意気込んで神戸で開催された神戸牛争奪戦、凌霜杯に出場しました。先述のQDOで一緒に福岡観光した青学の後輩とのチーミングでした。

 

 

 自分にとってこの大会は、とても複雑な思いを抱く大会でした。めちゃくちゃ好きな大会ですが、2回のリザーブドブレイク、1回のQF負けと、芳しくない結果が付き纏っていたので(じゃあもっともっと練習しろよという話ではありますね)。

 

 この大会のパートナーとは同じ年の6月頃にPhilosophy Openに参加して大敗を喫していたので、そのリベンジも兼ねての出場でした。

 前述の2大会同様、そこそこしっかり練習し、プレパも合わせていたので「やれるだけやったろう」という自信のようなものもありました。

 

 

 

 結果は17th Break(1チームがブレイクラウンド出場ができなかったので)、SFでした。

 ブレイクアナウンスメントを神戸の串カツやで仲の良い後輩達と見ていた時、自分たちのチームロゴが出た時は反射的に飛び上がって大声を上げてしまいました。居酒屋の他のお客さん、店員さんまじでごめんなさい。

 久しぶりのQFはめちゃくちゃ緊張したけど、同じ宿の後輩達が自分たちのケースに大袈裟なくらい頷いてくれたり、パートナーがここ一番の良いスピーチをしていたりと、まじで楽しかったです。だから結果発表で自分たちのロゴが残ったのはブレイク発表と同じくらい嬉しかったし、年甲斐もなく飛び上がって叫びました。

 久しぶりのブレイク、(BP大会としては初の)SF進出と、嬉しさが波のように襲いかかってきて、感無量を極めていました。おまけにそれを自分のことのように祝ってくれた中小の知り合いが本当に嬉しかった……。

 

 

 

 加えてこの大会、パートナーにとっては初めてのブレイクで、おまけに(所属する部活生活)最後の大会でした。そこに自分が関われたこと、そしてその結果に寄与できたことが何よりも嬉しくて誇らしくて、帰りの新幹線までずっと温かな気持ちでいられました。

 

 そんなこんなで、院2年目の前半は思ったような結果がついてこなくて、後半になってやっとそれが実績に繋がった、というなんとも上下が激しい1年でした。

 

 院2年の12月ということもあり、ここから自分は迫る修士論文の締め切りとの血で血を洗う戦いを繰り広げることになるのですが、それはまた別のお話。

 学生キャリアも残すところ数ヶ月。

 最後までお付き合いください。

 

 

 

 それでは。

 

 

 

*1:2017年のNDOで一度だけSFに進出したことはありますが、それ以外のブレイクした大会では全てQFで負けてしまっていたので、自分のことをこう呼んでいました。