ゼロから始めたディベート史 Ep.6『新しい挑戦』

 ども、けろです。

 コミに関する記事を書きながらふと自分のブログを遡っていたら、私的ディベート史の最後の更新が去年の10月末と知って震えました。もちろん武者震いとかじゃなく、ただの悪寒です。

 もうすぐ社会人2年目に突入するというのにこの自己管理の甘さと有言不実行っぷりはさすがにやばいだろ……ということで、コミ記事第四弾の投下前に、止まったままだった時計の針を少しだけ進めていこうと思います。目標としては夏までにはこの長いお話を完結させたいと思ってますので、ぜひ最後までお付き合いください。

 

 

 というわけで、以下目次です。

 

 

Ep.6『新しい挑戦』:院1年春~院1年冬

 

0.はじめに

1.怒濤の春

2.飛躍の夏

3.再認識の秋

4.集大成としての冬

 

0.はじめに

 遂にディベート史もEp.6まできました。書き始めが学部1年~2年の頃(2013~2014年)だったことを思うと、なんだかエモさを感じてしまいます。そして今回からやっと【院生篇】に突入します。~篇と命名したからといって特別何かが変わるわけではありません。なんとなくかっこよさそうだったから言ってみたかっただけです。院生篇、と聞くと真っ先にヒカルの碁を思い出すの、完全に世代ですね。

 こうして6年分の学生生活を振り返ってみると、本当にあっという間だったと感じるし、時間の有限さというのを意識せずに過ごしてしまったなぁと猛省します。もっとうまく時間を使えただろうし、もっと色んなことに挑戦できただろうし、もっと違った大学生活を送れたんじゃないか、と時折夢想してしまうのは、きっと人生のどのステージになっても自分の悪癖として残り続けるのでしょう。

 

 そういう悪癖を捨て去るためにも、自分はこのブログを書いているのかもしれませんね。過去の自分の歩んできた道を掘り起こし、描写し、事実を事実として取り上げる。自分を見つめ直す時間といってもいいかもしれません。

 

 最近、やっとそういう余裕を持つことができるようになった気がします。先日参加したとある研修で、講師の方が「過去は変えられないけれど、過去から学び取るものは変えることができる」と仰っていました。自分の大学生活はもう取り戻すことはできないけれど、そこに「何」を見出すかどうかはこれからの自分の考え方次第なのかな、と柄にもなく小洒落たことを考えたりするようになりました。

 

 そういうわけで、残り数パート、気長にゆるりとお付き合いください。

 

 

1.怒濤の春

 学部と同じ大学の大学院に進学した自分は、研究やら院での授業に追われる傍ら、しつこくディベートを続けていました。しつこくというかしぶとくというか、自販機のコーンスープの底に残る数粒のコーンよろしく、学生生活を最後までディベートに注いでいたわけです。まぁ、研究とかで溜まったストレス発散として、ディベートはうってつけの趣味だったのかもしれません。ちょうどおじいちゃん達が公園でゲートボールをする感覚ですね。

 

 院に進学してすぐに部活の後輩2人に声をかけ、春Tに出場しました。「先輩」として「自大学」の「後輩」を引っ張るのは想像していたよりも何倍も大変で、練習ではできていたことが本番ではできなかったり、他の後輩と組むときはスムーズにいくことで躓いたり、チームとしてはなかなか思うようにいかず、結果は普通にブレイク落ちでした。

 この時にうっすらと、自分が教育を怠ってきたことのツケが回ってきたように感じました。自分自身では現役のときは可能な限り後輩を育てようと思っていたし、それを実行に移してきたつもりだったけれど、(自分がまがりなりにも「実績」を得られるようになったのはキャリア後半の学部4年以降であることを踏まえると)きちんと理論を理解できるようになってからの自分がエジュケの根幹に関わらなかった/関わってこなかったことが、少しずつ顕在化してきているような、そんな実感を覚えました。

 

 学部4年とか院生というと、キャリア4年目とかに差し掛かってくるし、コミュニティ内での年次が上がるということもあって、真面目半分冗談半分で「老害」に片足を突っ込み始める頃合いかと思います(そのことの是非にはここでは触れません。あくまで事実として、現在のコミュニティはそうである、という言及です)。

 先輩に頼りきりになるというのは、確かに部の持続性とか次世代の育成という点ではあまりよろしくないとは思います。特定の先輩ばかりがいつもレクチャーをする環境では、後輩が自発的にエジュケをするようになりにくなったりするし、エジュケする側に立って初めて学べることを得られずに終わってしまうことに繋がりかねません。

 ただそれでも、部内に「先輩」という貴重なリソースがあるのなら、それを(いい意味で)使用するというのは、特に「中小大学」と呼ばれるような大学にとっては重要なのではないでしょうか。

 

 もちろん、現役生との距離感とか、各自の運営へのモチベ、部の方針にいちいち口を挟んでくる先輩の著しい老害化等、様々な課題はあると思いますし、これを上級生側が「押し売り」するのがお門違いであることは間違いありません。自分が同じ立場だったらちょっとウザさ感じるし。

 だからこそ、自分が現役の時に「頼れる時には先輩を頼ってもいい文化」というのを定着させられたらな、と思うわけです。いつも頼るわけではなく、ここぞという時にリソースのひとつとして頼らせてもらうし、先輩自身も自分の立場や役割を分かっている、といった距離感で。

 きっとそうした距離感がうまい部やサークルというのが、長い目で見て伸びていくのだなぁと勝手に思っています。

 

 そんなわけで悔しさと儚さ、申し訳なさを抱きながら終わった春Tでしたが、収穫がなかったわけでもありませんでした。

 大会が終わったその日の夜に後輩に感謝と謝罪のLINEを送ると、後輩の1人がすごく丁寧に「4Rで平均75点取るのが目標でした。達成できて嬉しいです」と返してくれたんです。75点というと、Nationalsに出たことがある人はわかるかもしれませんが、決して「高いスコア」というわけではありません。所謂”アベレージ”と呼ばれるスコア域ですし、ここが評価のベースになっていたりします。

 ただそれでも、後輩が自分で目標を設定し、それを達成した姿を傍目で見ていて、この大会に出た甲斐はあったなぁと。ブレイクラウンドに連れていくことは叶わなかったけど、後輩のディベート人生の中に何かしらの意味を持たせることのお手伝いができた気がして、自分的にはとても嬉しかったのを覚えています。特に自分のディベートキャリア前半は同期と結果を追い求めることに執心して、後輩と組んで大会に出る、ということは恥ずかしながら疎かにしていました。後輩と組むのは別の人に任せきりで、良く(後輩の言葉を借りて)言えば「部を最前線で引っ張る」ことはしていたけれど、ついて来てくれる人達の背中を押すこともできていたら、もっと良かったかもしれません。そんな、自分にとって数少ない「後輩と出た大会」で、距離感を掴みきれずにいた自分に対して後輩が送ってくれたその言葉は、とてもとても温かい気持ちにさせてくれました。

 

 

 そんな春が過ぎ、5月末、自分は名古屋に遊びに来ていました。もちろん目的はディベートです。この年に初めて開催となるNagoya Debate Open、通称NDOにWADとICUの後輩と出ることになったからです。後輩といっても自分と距離が非常に近くて、「先輩-後輩」のような明確に表せる関係性ではなかったと思います。

 

 この大会が自分にとって大きかったのは、参加層の厚さでした。OBの方も多く参加していて、そんな人たちと予選から殴り合えたのはとても楽しかったし、自分の好きな論題でバチバチに楽しい試合ができて、本当にいい大会でした。

 楽しかったのはそれだけではなく、この大会で初めて、実に5年越しに準決勝、つまり

Semi Finalに出場することができたことが、本当に嬉しかった。

 それまでの自分は、ブレイクすることはできても準々決勝、Quarter Finalで負けてばかりの所謂「QF芸人」でした。だから初めてその壁を突破できた時の嬉しさといったら、5年目とは思えないくらい大っきな声で飛び上がってしまうくらいでした。

 

 SFの相手も自分が尊敬する人たちで、そんな人たちと大勢のオーディエンスの前でスピーチをするというのはめちゃくちゃ緊張したけど、はちゃめちゃに楽しかったです。

 天皇制の是非に関する論題で、自分が某有名な音源をサンプリングして”Emperor system is an artificial concept, but a beneficial concept”と始めた時に会場の一部で笑いが起きたの、端的にいって病気ですよね(笑)。最高でした。

 

 予断ですがこの時のチーム名、”Claretta’s skirt”はめちゃくちゃ気に入っていて、自分ランキングでもトップに入るチーム名です。響きも由来も、全部が綺麗だなと思っています。

 

 

2.飛躍の夏

 院生最初の春は本当に一瞬でした。研究と授業とディベートをしていたら桜が散っていたし、関東特有の湿気を含んだ夏になっていたのは、本当に時間の速度を痛感します。

 

 院1年の夏も、それはそれは盛り沢山でした。

 まずQDO。このブログで最初の方に取り上げた旧Kyushu Cupです。学部4年の時は出場していなかったので、1年越しの参加でした。

 青学のマブダチのような後輩(?)とチームアップして、大会の2日前に現地入りしました。せっかくの福岡を満喫するぞ!と意気込んでいたはずが、なぜか私たちのチームは2日間ともQUDSの練習にお邪魔し、福岡遠征の貴重な時間を見事にディベートに充てたのでした。

 

 1年という空白を置いて参加したこの大会は、自分が以前参加したものとはまったく別物になっていました。大会規模も、招待ジャッジの質も、モーションの難易度もラウンドのレベル感も、もちろん2015年もめちゃくちゃいい大会だったんですけど、2017年のそれはもう凄まじくて、ただただ感動していました。

 

 ただその分、大会が進むにつれてしんどさを感じていたのも事実です。というのも、大会の規模が大きくなること、そして参加者の層が厚くなるということは、どの部屋にアロケされてもレベルの高いラウンドになるということです。

 当然、どんな相手でもやることは変わりませんし、勝ち負けの責任を他人に押し付けることは問題外です。自分達の生殺与奪は全て自分達のパフォーマンスに依存しますし、そこに関しては一切の言い訳とかをするつもりはありません。ただの感想として、「レベル高っ、しんどっ」というのを抱いていた、ということです。

 

 確かR1は関西のめっちゃ上手いチームが前にいて、堅実に2位を狙いにいって見事に2位、R2はCOでよく分からん話をして3位と、2015年にはこの時点で5点獲っていたのにこの年は3点でした。

 R3で普通に強いチームが同じ部屋にいて、自分達OOは「この部屋って3点部屋じゃないの??」と謎のキレ方をしたのを覚えてます。このラウンドをなんとか1位で抜けて、最後のラウンドは北朝鮮核武装論題でOGでした。

 OOとCOに知り合いがいて気楽でしたが、その分負けたくないという殺意もあったので、バブルラウンドとしての緊張感充分の部屋でした。めちゃくちゃ楽しかったです。

 

 正直Oppベンチの話が普通に上手かったので負けた感触を抱きながら、運営が手配してくださったブレイクナイト会場で寿司と酒を貪っていました。

 

 余談ですが、QDOのブレイクナイトは国内のどの大会と比較してもトップクラスのクオリティだと思っています。なにせ(少なくとも2017年と2018年は)学内にブレイクナイト会場があり、R4終了後に直行して美味しいご飯とお酒を堪能できるんです。

 以前の記事でちょろっと触れましたが、ブレイクナイトって運営からするとかなり腫れ物というか、運用が大変なんですよ。大会会場の近くにすると遠方参加者が参加しづらいし、却って遠くにするとアクセスが不便なので行くモチベが下がる、といったジレンマがあるので。

 そうした意味で、QDOという国際大会は、参加者のほぼ全てが博多周辺に宿を取っているという点でブレイクナイトを開くにはもってこいなのでは、と勝手に推測しています。

 ブレイクアナウンスメントが始まって、どんどん順位が下がっていく中、なかなか自分達のチームが呼ばれないことに焦り、それはパートナーも同様のようでした。

 だから、もう何位で呼ばれたかあまり覚えていませんが(確か28位とかだった気がします)自分達のチーム名がスライドに映ったときはそれはそれは嬉しくて、同じ宿のメンバーと大声で飛び跳ねて喜びました(*1)。

 

 ブレイクラウンドは、Oct Finalからめちゃくちゃにレベルが高くて、「え、俺らこの人達とディベートすんの?まじ?」って感じでした。だから(OGというサイド運が8割方味方してくれたのは間違いありませんが)リザルト発表で自分達のチームが残ったのが信じられないほど嬉しくて、パートナーも雄叫びあげてて、周りも(いい意味で)驚いてくれてて、夢を見ているような気分でした。

 QFでは善戦虚しく負けてしまいましたが、海外ディベーターのかっちょいい議論に全力で喰らいついていったあのヒリヒリ感を体験できたのはなにより大きな経験だったし、端的に言って「最高」でした。

 

 

 この時点で既にお腹いっぱいになるくらい夏を満喫していたんですが、実はこの夏はまだ終わっていませんでした。というのもこの大会が終わってすぐにIcho CupのACが控えていたからです。

 自分語りとか自分の実績の美化のようなことは極力したくないのですが、所謂「中小大学」からACを輩出するというのは、簡単なことではありません。ジャッジやディベーターとしての一定の成績が要求されるということは、必然的にかなりのハードルになります(*2)。

 

 学部3年生で初めてディベーター・ジャッジブレイクをした時に、自分はいくつかの目標を(自分の中だけで)立てていました。たとえばスピーカープライズに入るとか、例えばジャッジアワードをもらうとか、そういうやつです。

 そのうちの一つに、「2日間大会のACをやる」というのがありました。実はこの半年ほど前の2017年1月にKK Cupという名古屋の大会でACを務めさせてもらったので、その時点で夢は叶っていたんですが、「自分が1年生の頃から見ていた大会でACをやる」という、憧憬にも似た感情というのはいつまでも残っていたので、CAから声をかけてもらったときは本当に嬉しかった。

 加えて、この大会で自大学の(前述の春Tに一緒に出た)後輩がジャッジブレイクをしてくれたのも、その子を1年生の頃から知っている立場の人間として、本当に感慨深かったです(*3)。

 

 個人として、そして「大学」として、ほんの少しではあるけれど飛躍することができて、満足度が高いシーズンだったと思います。

 

 

3.再認識の秋

 春と夏を書き終えた時点で文量が膨れ上がっていることに気づいたんですが、もうここまできたら院1年はこの回で終わらせようと思います(開き直り)。

 さて、秋は秋で色々とあったはずですが、一番記憶に残っているのは秋Tのブレイク落ちでしょうか。

 既に出落ち感があるのですが、久しぶりの関西開催となった秋Tで、自分は自大学の後輩(春Tのパートナーとは別です)を誘い、エジュケをしつつ結果を求めていました。

 というのも、自分は今(2020年3月現在)に至るまでに所謂ナショナルズと呼ばれる3大会でディベーターとしてブレイクをしたことがなかったので、出るからにはブレイクを目指していました。

 他のジョイント可の大会と違って、(春と秋の)ナショナルズは純粋な大学間対抗ということもあり、各大学の地力が割とモロに反映されます。そういう意味で、自分はナショナルズでブレイクしたかった。自分という個人だけではなく、「神奈川大学」という「団体」として、他の大学と対等に戦えるくらい強くなったのだということを証明したかったし、ESUJで初めて大会というものを知った時から、それだけは譲れない目標でした。

 

 結果的に自分にとって最後のナショナルズがこの2017年の秋Tで、そこでブレイクを逃した自分は永劫そのチャンスを失ってしまったのですが、これだけは数少ない心残りになっています。

 前述の内容と重なりますが、やはり現役生の頃から風土作りに尽力すべきだったし、部活を引退した後も違う形で関わり続けるべきだったのかもしれません。今となっては完全に後出しでああだこうだ言うことしかできませんが、きっとこれだけはいつまでも尾を引くのでしょう。

 

 やはり自分は、「個人」としてある程度の結果を残すことはできても「大学」を強くすることはできていなくて、周りを巻き込んでなにかをするのはこんなにも難しいことなのかと再認識した瞬間でもありました。

 

 

4.集大成としての冬

 院1年の冬にディベーターとして出た大会は神戸牛争奪戦ことRyoso Cupだけでした。KDSの仲良しの後輩と組んで臨んだ神戸牛との戦いは、過去2回のリザーブドというジンクスを覆してブレイクすることはできたもののQF芸人という別のジンクスに阻まれてあっけなく終わりました。や、単に負けたというのなら納得もできるんですが、このQFで自分は過去一番の爆死をぶちかましてしまって、それをしばらく引き摺りました。パートナーにも申し訳ないし、自分の無知さが恥ずかしいし、そんなもやもやとした感情でこの冬のBPシーズンが終わったのを覚えています。

 

 競技者としてはあまり大会に出なかった自分は、この年のJapan BP、所謂冬Tで久しぶりのコミをやることにしました(*4)。

 ただまぁ、これはいつものことなのですが、会場が見つからなかったり、見つかったけどかなり遠隔地だったりと、運営としては頭を抱えることも多かったです。おまけに自分の仕事が遅くてACの方々に迷惑をかけてしまったり、オンラインレジの導入等参加者の皆さんにも多大な負担をかけてしまったりと、およそTDとしては充実感よりも申し訳なさの方が強かったんですが、それでもこの大会をTDとして運営できたのは本当に良い経験でした。

 仲の良い友人たちをコミに呼んだり、歴戦の方々を当日コミとして召喚したり、ラウンド間に部屋を走り回って写真を撮ったりと、「コミならでは」の時間を十二分に楽しむことができて、とても充実していました。

 そしてなにより、自分が敬愛してやまない方をCAに迎え入れて一緒に大会を作れたことは、自分のディベート人生の中でもトップクラスに嬉しいことでした。学部2年の夏に初めて参加した夏セミで自分が参加したラボのレクチャラーで、学部3年の春に参加したでぃべすすのR3とQFでボコボコに殴ってくださった方で、事あるごとに優しく声をかけてくれる、もはや崇拝にも似た憧れを一方的に抱いている方がCAを引き受けてくださって、しかもその後の国際化の波の発起人としての取り組みをしてくださって、自分は本当に幸せ者だなと思いました。同時に、続けてみるもんだなぁという月並みの感想も抱きました。ディベートを始めた当時の自分からしてみれば、まさかこの人と一緒に仕事ができる日がくるなんて夢にも思わなかったでしょうから。

 

 

 そんな夢のような、それでいて怒濤の大会の運営を終えて、自分は正規コミを引退することにしました。別に明確な手続き等があるわけではないのでただの口約束なのですが、それでもこれからのコミュニティを担っていくのはこれからの若い世代であるべきだと思ったし、自分のような老兵は潔く身を引いて後進を応援しようという決意の表れです。

 

 

 余談ですが、この時の自分はまじで研究と大会運営の2つに見事に忙殺されていました。院生の忙しさを痛感するとともに自分のキャパの小ささに絶望する数ヶ月間でした。

 

 

 

 といった具合に、およそ研究が本分の院生の行動とは思えないほど活動していました。後輩と組んで大会に出たり、初めてSFいったりACやったり後輩と大会に出たり。もう少し真面目に研究してくれと思いながらも、こうした新しい挑戦は、自分にとってプラスだったのだと今なら思えます。

 本当はこの後、春先のAsian大会のことも書こうと思ったのですが、それはまた次回、ゆっくりと字数をかけて書こうと思います。

 

 

 残すところあと1年ちょっと。最後まで適当な眼差しでかわいがってください。

 

 

 それでは。

 

 

*1:同じ宿に泊まっていた仲良しの後輩チームの1人は、ブレイク落ちを確信していたのかヤケ酒をしていて、ブレイクがわかった時には祝い酒をして無事潰れていました……酒は飲んでも飲まれるな。

 

*2:加えて、JPDU大会以外の大会のAC選出はコミが行うことが多く、そういう意味で「コネ」というか、ある程度「顔が広い」ことも必要になったりします。

  新2年生がエジュケ・経験を積むためにACをやることもあるので、一概に「実力」のみが指標になっているわけではありませんが、それでもその選出過程で名前を挙げていただくためには、一定の実績を残していることは最低限必要な要素でしょう。

 

*3:確かこの年のIcho Cupの優勝はAIUだったんですが、AIUのことを知っている人が当時のディベート界にはあまりいなかったというのもあり、ブレイクラウンドのリザルト発表で色んな大学を蹴散らして上に進んでいくその姿は本当にかっこよかったです。決勝も6-7くらいの割れ方の激戦を制しての優勝だったので、(おこがましいのは承知ですが)「中小大学」として勝手に親近感をもらったり、勇気づけられたりしていました。 

 

*4:その前にコミをやったのは2016年のJapan BPだったので、ちょうど1年ぶりでした。実は2016年の時点で「来年はTDをやる」と意気込んでいたので、大会の3ヶ月前くらいから動き始めていました。詳しい所感は当時のFacebookに長文でポストしているので、コロナで時間を持て余している方は投稿を遡ってくだされば当時の生の声が見られると思います。別におすすめはしません。