ゼロから始めたディベート史 Ep.0-1『ゼロどころかマイナスの時代』

 どうも、けろです。

 もはや前回の更新がいつだった思い出せないくらいにはブログ更新サボってました。

 言い訳すると、年明けの修士論文の締め切りと、1月末の口頭試問、2月のざかん と3月の修論発表会に追われ、完全にブログを放置していました。本当に申し訳ないです。

 

 

 さて、ツイッターをフォローしてくださっている方は以前目にしたかもしれませんが、私的ディベート史を何回かに分けてつらつらと書いていこうかなと思います。タイトルは某ラノベパクリオマージュです。

 書こうと思った経緯については、1.自分がこの4月から企業戦士にジョブチェンジし、必然的にディベート界から距離を置かなければならないこと、2.最近色々な大学でディベートサークルができているということ、3.まがりなりにも『中小大学』という区分の中で6年間もしぶとくディベートを続けていたこと、等を文章化した形で残したいと思ったのがきっかけです。

 あとはまぁ、全国に無数ある中小大学の人にとって、少しでも励ましや応援になればな、という思いもこもっています。

 

 出来るだけ当時の記憶を掘り起こし、当時の感情をそのまま記述したいと思ってはいますが、なにせ6年も昔のこととなると日本の国会議員ばりに記憶が曖昧なので、若干の補填や、今の視点から捉えた描写もあると思います。ご容赦ください。

 

 「こんなにも頑張ったんだよ!!!」みたいな自分語りをしたいわけではありませんが、そういう風に映ってしまったらしまったらすみません。そんな時はブラウザバックしてyoutubeで猫の動画でも見てください。癒し。

 

 

Ep.0-1:学部1年〜学部2年生春

『ゼロどころかマイナスの時代』

0. はじめに

1. 「リフレク」「エジュケ」をもらえない活動

2. 「プリンシプル」の不在

3. 梅子エリミネ

4.「神奈川勢」との出会い

 

0. はじめに

 私がディベートを始めたのは、今から6年前、2013年でした。私の所属する部活はESSを母体とし、その中でディベート、ディスカッション、ガイド、スピーチの4セクションがそれぞれ活動をする、という形式でした。ディベートセクションに所属したのは(記憶が正しければ)7月の頭くらい。そこから本格的に「ディベートセクション」としての活動が始まりました。

 はじめに断っておきますが、当時の自分(学部1年〜2年前半)はその環境下でのディベートをある程度楽しんでいた、というのが実際のところです。ですのでこれから書くのは、当時の記憶に頼りながら、今の自分から捉えた気持ちも多分に含まれています。

 

1. 「リフレク」「エジュケ」をもらえない活動

 さて、当時の状況というのは意外と自分でも印象的な部分しか覚えていない面も多かったので、とりあえず(奇跡的に)残っていた当時のディベートノートを引っ張り出してみました。

 論題は、まぁ普通なのが8割、やばそうなのが2割。意外と古典論題ばかりやっていました。THW ban cosmetic surgeryとかTHW force doctors to tell the truth to the patientsとか。たまにTHW ban zooとかが紛れ込んでて草生えましたが。

 そんな日常的な活動の中で、一番困ったのは、ラウンド練後に建設的なリフレクがもらえない、という点でした。

 というのも、ディベートに熱心な先輩が多いわけではなく(というよりほとんどおらず)、ラウンド後にリフレクをもらいに行っても「話に一貫性がなかった」「キャラ分析が足りなかった」という一言で終わってしまい、具体的に自分のスピーチのどこが、どの程度足りてなかったのか、どこをどうすればいいのかまで教えてくれる先輩は残念ながらあまりいませんでした。

 中でも(今思い返してみると)困ったなぁと感じたのは、リフレクに対して質問をしても、それ以上に進んだコメントがもらえなかったりした点です。

 

 当然、体系化されたエジュケが存在していたわけでもないので、環境はなかなかにロックでした。

 Asianスタイルをやってみよう、となった時も、新しいロールであるwhipに関して先輩から教わったのは「whipはね、反論だよ!」の一言。いやまぁ、合ってはいるんですけど、っていう笑

 あと、2年生の夏くらいまで、AREAみたいなスピーチの型もほぼなかった(夏頃にあるESS全体の夏合宿でやるディベート入門の基礎的な型のみあった)ので、スピーチもそれはそれはカオスでした。

 

 ただ、そんな状況にあって、自分が先輩や練習環境への不満をあまり抱いていなかったのは、ひとえに「他大学のディベート環境」や「レクチャー資料」等の存在をそもそも知らなかった、というのがあります。

 というのも、先輩方が部内に流してくれる大会の情報というのがなぜか非常に少なく、必然的に自分たちが所属する環境というのが、他大学と交流することがほとんどない、完全なガラパゴス状態でした。そりゃ独自の進化も遂げるわ。

 

 よく巷では、「レクチャー資料やディベート資料なんていくらでもあるのに、それを消費せずに環境のせいにするのはおこがましい」という意見を耳にします。もちろん今では、その正しさをある程度理解していますし、理解してからは部内のGoogleドライブに資料の絨毯爆撃をしました。

 ただそれでも、完全にガラパゴス化した環境というのは、「情報を得る情報が手に入らない」という状況を常態化するのだな、と思います。そして、その環境で育つということは、何か外的な要因でもなければ自分たちが置かれた状況にすら気づけないという悪循環を生み出すのだな、と強く感じています。

 

 

2. 「プリンシプル」の不在

 そんなこんなで、ガラパゴス化し、既存のディベートコミュニティからほぼほぼ隔絶していた我がESSディベートセクションには、「プリンシプル」という概念が存在していませんでした。もっと正確にいうならば、「『権利』『自由』といった大きな概念は知っているものの、それをアーギュメントとして確立する技術がない/評価する方法を知らない」という状況です。「自由」という議論をするときに持ち出す話は「憲法で保障されてるから!」という、どう考えても堂々巡り。無限ループって怖くね?

 

 なので、THW ban ~という論題でgovが出すのは、危険性!死ぬ!という、昔のディベート界で使われていたInnocent citizen die論法のみでした。oppもoppで、「自由だからよくね?」という立論を行えば勝てるはずなのに、一言だけ「自由だ〜」と叫んだだけであとはプラの話に終始するという始末。

 おかげさまでRFD、リフレクの内容というのは必然的に「プラクティカル」な事象のみに限られていくので、「どちらがシリアスか」みたいな話しか聞きませんでした。

 

 

3. 梅子エリミネ

 それでも、高校まで英語をかじっていたという若干のアドバンテージと、議論することが好きという要素が噛み合い、一応部内ではそこそこの位置にいた自分ですが、あるときに悔しさとやるせなさを感じました。

 毎年秋に開催される1年生大会、梅子杯に向けた部内エリミネです。

 まぁ結論からいってしまうとエリミネ落ちして梅子出場を逃したんですが、重要なのはそこではなく、そこに至るまでの経緯でした。

 その当時の梅子杯というのはAD制を採用しており、ジャッジ提供数はチーム数-1、つまり部からのジャッジ提供は1人いれば充分、でした。

 ただ、前述の通りうちの部には外とのコネクションなんて文字通りゼロでしたので、3年生の先輩から放たれた言葉は「提供できるジャッジがいないから、ウチから出られるのは1チームだけなの、ごめんね」という無情すぎるもの。いやまぁ別に、他大学とのコネクションを作ることはESS活動の中でマストではないけど、それにしたってあんまりじゃないか?と1年生ながら思ったりしました。自分たちのチームは一応エリミネ突破圏内にいたので、余計に悔しいと思いと、行き場のないやるせなさがこみ上げていましたね(*1)。

 このとき、自分の中に「来年は、自分たちのせいで後輩に悲しい思いをさせたくない」というふつふつとした思いが芽生えたりしました。

 

4. 「神奈川勢」との出会い

 今では何がきっかけだったのか本当にさっぱり思い出せないのですが、1年生の10月に横国ESSのディベートセクションの活動に数人で遊びに行ったのを覚えています。確かその場には横市の先輩もいたかなぁ、と思いますが、違ったら申し訳ないです。

 そのときに初めてBPというスタイルを知り、初めてながらラウンドに入ったのを今でも思い出せます。なんなら論題がTHBT black entertainer should not use "N-word"だったということも、自分たちがOOだったということも鮮明に覚えています。

 身近で感じた他大学のディベートというのは本当にかっこよくて、論題はわけがわからなかったけどあのヒリヒリとした感覚がたまらなく好きで、横国・横市の先輩たちのキラキラとした遠い背中に途方もない憧れを抱きました(*2)。

 これがだいたい1年生の秋頃。

 その後は相変わらず大会の情報が共有されることなく時間が過ぎ、自分のディベート人生は部内の活動だけで完結していました(*3)。

 

 再三になりますが、この頃の自分はそれでもその状況を楽しんでいました。勝てば嬉しいし負ければ悔しい。先輩がくれるちょっとだけ薄めのリフレクにはどこかで悶々としながら、それでも学部1年生の春休みは、バイトや初めての彼女とのデート、新入生を迎える準備や夏の合宿でのディベートに向けた熱意等々で充実していのは確かです。

 

 

 ただ。ただそれでも、「あの頃に過ごせなかった時間」を夢想してしまう自分がいます。

 きっとあの頃、同期はBP NoviceやJapan BPでのBP、The Kansai等のAsianシーズンや冬ADIで色々なドラマを経験していたのでしょう。それに嫉妬するわけではないけれど、その時間を経験していないという劣等感は、今もどこかにあります。

 みんながするADIのワイワイとした話を自分は知らないし、BP Noviceで先輩に手取り足取りディベートを教えてもらった暖かな記憶もない。The Kansaiやディベートのすヽめに同期とジョイントで出た青春っぽい出来事も、ライバルみたいな友達とどこかの大学の練習で日頃殴り合った光景を、自分は見てきていないんだなぁと。

 もし自大学のディベートセクションが他大学のように初めから「ディベート」に熱意を持っている部活だったらなぁという、行き場のない空虚な気持ちを、本当にたまに抱きます。

 

 

 ま、こんなこと思ってもトイレットペーパーの代わりにもならないんですけどね!

 ちなみにこれがEp.0です。1ではなく0にした理由は、この時点で自分のディベート人生は始まってすらいなかったと思っているからです。AREAもプリンシプルもBPも各論も、リソースにアクセスするリソースのないウチのディベートセクションが置かれていた状況は、ゼロですらなくマイナスだったと今でも思っています。

 

 

 続きは次の更新で。Ep.0はもうちょっとだけ続きます。

 

 

*1:ウチの大学では個人単位のPM/LOスピーチのトライアウト、という形式ではなく、部員各自が各々チームを組んで、各チームで6~8Rの総当たり戦をやる、という少し特殊なエリミネ方式を採用しています。

 

*2:一応その年の夏の銀杏杯にウチから数チーム参加し、自分もブレイクラウンドは観に行ったのですが、如何せん初めて他大学に行くし、周りはADIとか日頃の練習で打ち解けている中で完ッ全に孤立していたので、「すごいなぁ」という気持ちと、「なんだこの身内感」という名状しがたい疎外感がごちゃ混ぜになった感情を抱いてました。なので初めて「身近に感じたディベーター」という意味では、やっぱり横国・横市の先輩たちなんですよね。

 

*3:「情報が共有されない」と書きましたが、比喩ではなく結構ガチです。自分が1年生の時に部内に共有された大会の情報は、銀杏杯・高館杯・梅子杯・土筆杯の4つだったはずです。高館杯と土筆杯は共有が徹底されてたかは謎です。知ってる部員と知らない部員がいたので。BP NoviceやらJapan BPやら、いわゆる「メジャー」な大会の情報は一切入ってきませんでした。乙。