最近の朝早めに起きて家事を済ませ、映画見たりしながら昼を過ごし、晩御飯の献立を考えながらブログを書くという生活、端的にいって最高です。これで時給5千円くらいもらえたら言うことなしです。誰か分給5万円ください。
学部2年の秋から「ディベート」を始めた僕たちは、周囲とは2周遅れくらいでコミュニティに飛び込みました。
そこから大体半年でコネクションをディベート界の全域に拡大する戦略を展開した僕たちは、遂に学部3年生になっていました。はてさて、どうなるのでしょう。
Ep.2『夢見た景色』:学部3年夏
0. はじめに
1. 遅れを取り戻す夏休み
2. 夢が叶った瞬間
0. はじめに
前回のブログでも軽く書きましたが、この頃の自分は髪の毛を金髪にしていました。理由は特にないのですが、それまでもアッシュやらグレーやら赤茶やら色々な髪色を試していて、やっぱり綺麗な金髪にしてみたいっていう願望があったんだと思います。
ところがどっこい、自分の髪の毛は硬い・色が濃い・毛が太いという、およそ美容師が嫌がるであろう三要素を全て兼ね備えた最悪な髪質でした。当然ブリーチ1回じゃ全然色が抜けず、オレンジ色になるだけでした。
なので最終的には5〜6回ブリーチしてたと思います。
ブリーチが4回目を越えると、シャワーの時のキシキシ感が尋常がなくなるし、キューティクルが完全に消滅し、リカちゃん人形みたいな触感になるんですよ。「髪の毛の形をした何か」へと変貌を遂げた瞬間でした。
ただまぁ、この髪色だと大抵のディベーターに一発で覚えてもらえます。
こういうことを自分で言うのは本当に何様って感じなんですが、自分の数少ない武器はスピーチの聞き取りやすさとストラクチャーの丁寧さだと思っているので、そのギャップで驚かれるみたいですね。「見た目やばいのにスピーチがまともでびっくりした笑」みたいに笑。まぁ失礼かよって感じですけど笑、自分は割とそこら辺気にしてないので、
皆さんもソーシャライズの際は髪色を派手にしてみてはいかがでしょうか。失うものもありますが、きっと得るものもたくさんあると思います!
1. 遅れを取り戻す夏休み
学部3年生に進級し、ESSの幹部職に就いた私は、4〜7月のおよそ4ヶ月間、新歓やESSのイベントに忙殺されていました。そこそこに。
なにせ毎月新入生向けの新しいイベントがあり、3年生として、幹部職として、そこそこにやることが多かったわけです。
おまけに8月上旬にはESS最大のイベントである夏合宿があり、その中で開催される全セクション合同のディベート大会の準備があったので放課後の時間がそちらに割かれてしまう、という状態でした(*1)。
一応6月には神戸で開催されたGolden Cupやら、1日大会のPre-Australsに他大学の同期と参加するなど、大会自体には参加していたのですが、如何せん新歓等に時間を割いている関係上、思うように練習時間を取れないという歯がゆさがありました。
まぁこれはどの大学も割とそうだと思うので、そのせいで結果が出なかった!というのは少しおこがましい気もしますが。
そんな中突入した夏休み。1週目に夏合宿が終わるので、その後は各セクションの活動が活動の中心となります。
この夏休みで一つ結果を残そう、というのが自分とパートナーの目標でした。
というのも、この8月末に福岡で開催されるKyushu Cupが、当時まだ大会規模も大きくなく、中小大学がブレイクを狙うには穴場なのではないか、という情報を先輩から言伝に聞いたからです(*2)。
「福岡で大会があるらしくて、ブレイク狙えるかもなんだけど、出ない?」
「もちろん出よう」
この時、自分とパートナーの中でこのKyushu Cupが勝負の大会に決まりました。
せっかく福岡まで遠征するんだし、手ぶらで帰るわけにはいかないぞという思いもあったのだと思います。
ただ、前年のJapan BP 2014で思い知ったように、自分たちにはあらゆるものが不足していました。エジュケしてくれる人も、教育的リソースも、十全に足るラウンドの質も。
そして何より、自分たちよりも上手い人たちとディベートをするという経験値・場数が圧倒的に不足していました。
そこで自分たちが取った行動は、とにかく他大学の練習に参加しまくり、狂ったようにラウンド練を重ねる、といったものでした。
今振り返ってみると、生産的じゃないし効率も良くないし、昭和かよって感じのスポ根臭が漂ってくる練習方法ですね。
それでも自分たちには本当に重要な練習だったと思います。ガラパゴス化した自大学の練習では、難しいモーションに触れる機会も、満足のいく反論を打つ機会も、自分たちより速い英語を爆撃のように浴びる機会も、自分たちのうんこスピーチに対して建設的なリフレクをもらう機会もないわけですから。
慶應や横市、横国、学習院、東工大等の練習に行き、ラウンドに入れてもらい、愚直にラウンド練を繰り返しました。自分たちに欠けていた、現場での場数・経験値を補い、今まで自分たちが得られなかったものを取り戻すためです(*3)。
この練習を、大体週5〜6で続けました。バイトがある日も、シフトを夕方からにして、日中の時間は基本的にどこかの大学でディベートをしてたと思います。充実。
この夏休みだけでこなしたモーション数、ラウンド数はかなりの数だったと思います。紙が一瞬でなくなりましたから。
おおよそ3週間ほどこの練習を続け、時には後輩も連れて行き、新歓シーズンにできなかった練習をしこたま詰め込み、日付はいつの間にか8月下旬に差し掛かっていました。
そして、大会が始まりました。
2. 夢が叶った瞬間
予選の調子はまずまずでした。むしろよかった方です。
R1は旧植民地主義国家が過去にパクってきた重要な文化財を元の国に返すって論題で、OGでした。以前に偶然同じ論題でケースファイルを作っていたというミラクルがあり、その資料を元に当たり前の話をしました。端的にいうと「いや、お前が盗んだものやんけ、返せよ^^」って話です。それ以上でも以下でもない、当たり前の話を当たり前に話して2位。
R2は国家の無過失責任を問う論題でCO。正直ラウンドが始まってもモーションの意味がいまいち分からなくて、パートナーと二人で50回くらいインフォスライド読みました。
そのインフォスライドの意味がやっとわかった時、「え、どのサイドも全然関係ない話しかしてなくない?」ということに気づきました。というのも、OG/OO/CGのどのチームも一般的な過失責任の話しかしてなくて、「政府が十全な対策を行った際の責任の所在」の話をしてなかったように思えたんです。
そこで頭の中にふとよぎったというか、無意識のうちにスピーチ原稿に組み込んでいたのが、Ep.1でさらっと触れた春セミで学んだことでした。
自分が直接師事していたわけでも、直接レクチャーを受けたわけでもないんですが、とあるレクチャラーのエレクティブに参加していたパートナーが持ち帰ってきたとある資料。それはフレーミングに関する資料でした。
論題が何を要求しているのか、論題の主眼とすべきイシューはなんなのか、相手が展開した議論を矮小化させる見せ方、議論のスコープを自分たちの議論に寄せる方法等々が書いてあった資料を、多分少なくとも20回くらいは読んだと思います。
もちろんレクチャラー本人に質問をしたわけではなかったので自分がこの資料から学び取ったこと以上の成長はなかったのですが、それでもこの資料の存在がこのラウンドで生きました。
「どのチームもくそジェネラルな過失責任の話しかしてないと思うんですけど、これって国家が最大限問題を解決しようと善処した際にそれでも起こってしまった被害の話ですよね?え、国家って悪いんですか?」
みたいなイントロを、自分とパートナーはしたと思います。
これもこれである種のあたりまえ体操レベルのフレーミングで、それを得意とする方からしたらかなり簡易なものであるというのはわかっていますが、それでもこれがジャッジにウケたようでした。実際にポジティブなエクステンションを強く立論できたわけではなく、このフレーミングと、どういう状況で政府が問題解決できなかったのか、みたいなイラストだけしかできなかった気がしますが、このラウンドで1位を取れました。
さて、R1で2位、R2で1位をとると、この時点での持ち点は5点になります。
R2終了時に獲得できるポイントはマックスが6点なので、めちゃめちゃいい出だしですよね。今でもBPの大会でこんなにいい出だしを切れたことないです。基本サブマリン型ディベーターなので(*4)。
「え、いいじゃん俺たち」
「他の日本チームが割と3〜4点なのに俺たちいい調子じゃね?」
みたいな浮かれた会話をする僕たちは、すっかり忘れていたんです。
ディベートの大会というのは勝ち点に従って次のラウンドのアロケーションが組まれるということと、この大会が国際大会だということを。
次のラウンド、国公立大学の教育内容の是非を問う論題で、自分たちはCGだったのですが、OG/OO/CO全てが海外チーム(ないし、日本勢と海外勢のジョイントチーム)でした。
お、国際大会感あるやんけ!とワクワクしたのもつかの間、このラウンドにいた面子、結果的に僕たち以外全員がGFに進出しました。なんやて。
要するに国際大会の擬似GFに放り込まれたわけで、完全に生まれたての子鹿と化してました。
特にCOの一人、2017年のNEAOでCAとかやってました。いやいやいや。なんやねんこの大会。
エクステンションは出したもののまぁCOからフルボッコにされて4位を喰らい、曲がりなりにも国際大会の洗礼を受けた気がしました。
(今思い返すとちゃんとしたエクステンション出せたな、と思います。今なら多分3位以上は狙えたと思います。クッッソ後出しジャンケンのイキりですが笑)
最後のラウンドはOOで、職を奪うAIの開発禁止論題でした。
人生で初めて(自覚を持って臨んだ)5点のバブルラウンドに放り込まれ、ここを耐えればブレイクできるぞ!と意気込んでいた我々は、OOから想定されうる話をすっ飛ばし、相手へのエンゲージを中心にコンストを組み上げるという、COのエクステンションのような話を展開してしまいます。土壇場に弱いですね。
OGは潰せたかなぁと思いつつ、CGにPOIを打ちながら、COの当たり前の話を聞いてました。白熱してました。
興奮冷めやらぬ中、パートナーと二人でブレイクナイト会場に赴き、この半年間でできた数少ない知り合いと話しながらアナウンスメントを待っていました。
この当時のブレイクナイトは大学内の施設ではなく、どこかのパーティ会場を貸し切っての開催でした。料理の取り合いが凄まじかったです笑
AC達が会場に到着して、会場がざわざわし始めて、自分たちもどこか落ち着かない気持ちでした。
ブレイクアナウンスが始まりました。この時はスクリーン等は使っておらず、マイクでの口頭アナウンスだったので、自分たちのチーム名が呼ばれるかどうか本当にドキドキしてました。
「10th Break Team……Kanagawa A!!」
自分たちの大学名が呼ばれたら、きっと雄叫びをあげて喜ぶものだと思ってました。うおおお、みたいな。それか、泣いてしまうんじゃないかな、とか考えてました。
「え、今、呼ばれた?」
というのが正直な反応でした。それくらい現実味がなかったんです。
自分たちの大学名がブレイクアナウンスで呼ばれるということが、どこか叶わない夢のような、遠い世界のことだと思っていたからこそ、その後続々と呼ばれるチーム名を聞きながら、「あぁ、これは現実なんだ。呼ばれたんだ。やったんだ俺たち」という感情がふつふつと湧いてきました。
周りの知り合いのディベーター達も「え、今呼ばれたよね」みたいな感じで、その後「うん、呼ばれた」と返すと自分のことのように喜んでくれて、本当に本当に嬉しかったです。これが自分たちの初ブレイクだと伝えると、某東大の先輩が「おお、おめでとう!」と喜んでくれて、それもまた嬉しかったです。
ブレイクナイト会場から宿への帰り道、自大学のLINEグループで報告すると、すぐに同期や後輩達がおめでとうのメッセージを送ってくれて、「今までやってきて本当に良かった、、、」と感情が高ぶりました。
何よりも嬉しかったのは、ブレイクした知り合いに「また明日(試合会場で)ね!」と声をかけて別れることができるということ。それまではずっとその背中をオーディエンスとして見ているだけだったので、その舞台に自分たちも立てるんだ、という事実が本当に嬉しかった。
残念ながら、自分たちが経験した初めてのブレイクラウンドは、ガッチガチに緊張していたということ、モーションのレベルが予選より上がっていたということ、ブレイクラウンドという独特の空気感等、諸々の要因が重なって呆気なく初戦で散りました。そりゃもう呆気なく、スラムダンクの主人公ばりにあっさり負けました。スラムダンクちゃんと読んでないんですけど。
SF、GFをオーディエンスで見ながら、「あぁ、この世界は自分たちにはまだ早かった。グランドライン後半戦の新世界に突入した気分だわ」とかパートナーと話してました。
負けたなぁ、でも楽しかったなぁ、来てよかったなぁと思いながら、パートナーとクロージングセレモニーに参加。Quarter Finalistとして表彰されるのが何よりも楽しみでした。金髪が賞状もらうってロックじゃないですか?
と思っていたら予想外の出来事が。
ベストスピーカー表彰の時、9th Best Speakerで自分の名前が呼ばれたんです。名だたるディベーターに混じって自分の名前がスクリーンに表示された時、「まじ?ほんとに?」という止まらない疑問と、「うおおおお!!!」みたいな歓喜とがぐっちゃぐちゃに混ざり合って、自然と会場内で大きな声出してました。
いや、初めてブレイクできて、夢が叶っただけで嬉しいのに、その大会でスピーカープライズに入れるって、なんのミラクル?こんなに幸せなことってあってもいいの?
後でバロット見返したら、R2でうまくフレーミングしたことがジャッジの琴線に触れたのか、79点のスコアをもらえていて、それがアワード入りの要因だったんだなと。
スコアリングって結構ジャッジの主観によるところが大きいし、BPはランキングによってスコアが決まってしまうから、必ずしもそのディベーターの能力を客観的・定量的に測ることができるわけではないということは分かっているけれど、それでも自分の今まで努力のようなものが実を結んだような気がして、パートナーとその喜びを分かち合うことができて、この大会が自分にとって忘れられない大会になりました。
もう今から4年も前なんですけど、各ラウンドのこととかブレイクナイトでのこととかをこうして鮮明に思い出せるくらいには最高の思い出です。多分大学入学してから一番嬉しかった瞬間かもしれません。
この年、Kyushu Cupに参加するという選択をしたこと、自分たちならいつかやれると信じてディベートを続けてきたことは間違ってなかったなぁと思い、大会のバロットと賞状を見てニヤニヤしながら、所要時間約4時間強の新幹線に揺られて横浜への帰路につくのでした。
本当はこのEpで学部3年を一気に駆け抜ける予定だったんですが、まさか3年の夏だけで一話分丸々使うとは思いませんでした。
まぁ、それくらいこの夏は自分と、神奈川大学にとって大きなシーズンだったんだなと、これを書きながらぼんやりと考えています。
学部3年の秋からの話は、また次のEpで。
それでは。
*1:この合宿でのディベートは、NAスタイルを基盤としたESS独自の変速スタイルで、1年生2人と2年生1人で1チームとなり、1年生がコンスト、2年生がリプライのロール固定です。ただしリプライからの比較軸の提示や新しい反論はかなり評価されるので、NAとAsianの折衷スタイルともいえます。
予選4Rやって、本選がQFからなので結構白熱しました。自分は2年生の時決勝で負けたんですが、それを含めてとてもいい思い出ですね。
*2:旧Kyushu Cup、現QDO。自分たちが参加したKyushu Cup 2015は2回目の開催でした。ジャッジを全て招待制にしている点や、BPスタイルで唯一の国際大会という特徴があり、2016年頃からその規模を急速に拡大、2018年には世界大会CAを招待するなどとんでもない成長を遂げている大会です。ブレイクナイトでのご飯も美味しいし、福岡のご飯も美味しいので、ホスピタリティが国内屈指の大会だと個人的には思っています。
*3:僕がよく自分のことを「叩き上げ型」と呼ぶのはこのためです。リサーチとか読書とか資料を読んだりといった、所謂外的資源を通じた知識のインプット・基盤の体系化といったプロセスを経ずに、それらすべてをラウンド練を通じた現場経験によって培った結果です。自分たちの中に体系化された技術があるのではなく、現場での経験値によって体に感覚的なものとして覚えこませたので、よく後輩のエジュケでは苦労しています笑
*4:サブマリンとは潜水艦のことで、予選ラウンドの序盤で低い点数を取り、その後徐々に浮上することを指す俗語です。深く沈みすぎてそのまま浮上してこないことも……()