ゼロから始めたディベート史 Ep.3『周回遅れの遅咲き』

 どうも、ディベート界のBLEACH信者けろです。

    どうでもいいんですけどBLEACHって作品知ってますか。僕は知ってます。

    最高にオサレで最高にクールな少年漫画であり、日本に生きる市民として読むことが義務付けられた書物でもあります。

    登場キャラクターが非常に多いにも関わらず一切被らないキャラデザ、魅力的な敵キャラ、響きがかっこいい専門用語、そしてなにより、何を言っているのか意味が全くわからないけれど聴く者を全員厨二病患者へと染め上げるオサレポエム。

    初めてこの作品を読んだのは確か文字通り中学生くらいだったのですが、この作品のおかげで今も自分の精神年齢は中学生で止まったままです。

    大体74巻くらいしかないので、ぜひ読んでみてください。

 ちなみに昨年実写映画化されました。まぁ……お察しください。

 

Ep.3『周回遅れの遅咲き』:学部3年秋〜4年春

0.はじめに

1.個人の戦いを知った日

2.結果の出ない日々

3.再びあの場所へ

 

 

0.はじめに

 自分が初めてブレイクしたのは2015年です。

 その前後、およそ2014〜2016年頃が学生としてちょうど中間くらいの世代で、多くの先輩と多くの後輩がコミュニティにいました。

 今では自分と同期、あるいは自分より上の世代よりも、下の世代の後輩の数の方が多くなりました。歳をとった、ということです。

 ただ、自分の年齢以上に衝撃的なのが、僕が痺れるくらいに憧れ、決勝の舞台で火花を散らしながらディベートをしていた方達を、今の後輩たちは知らないのだ、ということです。

 こういう昔話を何度もしてしまうあたり、隠しきれない老害臭がダダ漏れとなっていますし、こうしてコミュニティは回っていくのが世の常というのは分かっていますが、それでもこう、なんともいえない寂寞とした気持ちになりますね。

 きっとこうして、どのコミュニティも連綿と続いてくのだと思います。

 

 

1.個人の戦いを知った日

 季節は自分がKyushu Cup 2015で初めてブレイクを遂げた日から少し後、10月頃です。

 神奈川大学ESSは3年の冬で引退なので、"引退"までのカウントダウンをその身で感じる秋口に突入し、残り少ない"現役"としての日々を謳歌していました。

 後期は前期ほどESSのイベントがあるわけではなく、活動の中心は各セクションの活動となりながら、後輩や同期との時間を噛み締めていた気がします。

 

 そんな中、1年生4人が京都で開催される1年生大会、紅葉杯に参加したいということで、自分が付添いがてらジャッジとして赴くことになりました(*1)。

 

 なにせジャッジとして大会に参加するのが数ヶ月ぶり2回目ということもあり、ディベーターの1年生と同じくらいガチガチに緊張していました。

 

 予選全ラウンド単チェアを務めさせていただいて、それだけでかなり満足度が高かったので、個人的にはブレイクできなくてもいいのかなぁとか考えながらブレイクナイト会場へ。

 おそらく参加人数と会場のキャパが釣り合っていないブレイクナイト会場は、人でごった返していましたがそのおかげもあってかとても楽しかったです。人と人の距離が近くて、参加者や知り合いと近い距離で話せたのがとても楽しかったです。

 

 

 ブレイクアナウンスが始まり、まずジャッジブレイクのアナウンス。

 

 自分の名前がジャッジブレイクのスライドに表示された時はめちゃめちゃ嬉しかったです。1年生大会でジャッジブレイク数も多かったけど、それでも自分個人の実力が認められたようで、とても嬉しかったです。

 

 本線はDOF、OF、SFをジャッジさせてもらえて、実力のあるジャッジの方と一緒にブレイクラウンドに入れて、実りのある経験になりました。

 何よりも大きかったのは、「個人」としての戦いを知ることができたこと。

 

 ディベーターとして参加するときと違って、ジャッジは成功も失敗も、その全てが自分のパフォーマンスに関わってきます。もちろんディベーターも、自分=チームなので自分の失敗はチームの失敗だし、自分の成功はチームの成功であるということはわかっていますが、自分がその趨勢の全てを握っているという意味ではジャッジが抱える負担というのは相対的に大きいなと感じました。

 

 

2.結果の出ない日々

 と、紅葉杯で初めてのジャッジブレイクを経験した私ですが、この時期のディベーターとしての戦績は振るわないものばかりでした。

 紅葉杯の1ヶ月前に開催されたJPDU Autumn Tournamentには後輩と、引退直前の12月のJapan BPには酸いも甘いも共有し、Kyushu Cupで喜びを勝ち取ったパートナーと出場し、そのどちらもブレイク落ちでした。

 しかも、そのどちらもバブルラウンドに行く前のオープンラウンドの段階でブレイク落ちが確定するという結果でした(*2)。

 Japan BPは、1年前の2014年に惨憺たる結果に終わったということもあり、本当に結果を求めていたので、日吉のHUBで開催されたブレイクナイトでブレイク落ちが確定したとわかった帰り道、一人で泣きました。いやぁ、悔しかった。あの大会で出たモーションも、自分たちがやったサイドも、対戦相手も、今でもそのほとんどを鮮明に思い返せるくらい悔しい大会でした。

 

 

 そしてこの大会から数週間後。

 自分の実力のなさ、パフォーマンスの安定のなさを嘆きながら、自分たちはESSを引退しました。あっという間の3年間でした。

 

 同期の多くがこれを境にディベートから離れてしまったので、ここからまた少し角度の違った戦いが始まります。自大学というよりも、自分たちの戦いです。

 

 

3.再びあの場所へ

 ESSを引退し、春休みに突入した自分は、ここで大きな転機を迎えます。

 慶應大学主催の大会、ディベートのすすめに、所謂「オーソリ」の先輩となんやかんや色々あって出場することになったんです(*3)。自分よりはるかに強く、数多の大会でディベーター/ジャッジとして結果を残している方と組めるとあって、僕の中には嬉しさと同じくらいの不安が込み上げていました。

 なにせこの大会、学生・社会人の中でも非常に実力のある方々がジョイントで出場するということもあり、ブレイク枠に対する競争率が他の大会と比べて非常に高いんです(*4)。

 自分が足を引っ張ったせいでブレイク落ちしてしまったらどうしよう、という不安がなかったかと言えば嘘になるし、チームは最高に楽しかったけど、だからこそ練習期間に「いつまでも大会が始まらなければいいのに」と思ったこともありました。

 

 このチーム、まさに自分はこの先輩におんぶに抱っこでした。

 vetoはこの先輩が95%決めるし、マターは全部この先輩が出してくれるし、自分が2nd(govの時)とwhip(oppの時)をやった時には反論をたくさんたくさん渡してくれたし。お世辞にも「自分が頑張った」と胸を張って言えるわけではありませんでしたが、それでも大会前1ヶ月はかなり根を詰めて練習をしていたし、成長を感じていたという側面もありました。

 

 ちなみに今でも、大会前はこの先輩がかけてくれた『誰が相手でもやることは同じ』という言葉を思い出します。特にこの前後の自分は強い方との対戦や、下馬評というのを必要以上に気にしてしまうメンタリティだったので、自分より実績のある方と対戦する際はこの言葉を思い出して自分を奮い立たせています。この言葉に本当になんどもなんども救われました。

 

 R1、R2と(先輩のおかげで)快勝し、R3で自分の尊敬するディベーターのチームにボッコボコにされ、R4のバブルで圧倒的にクロースの試合を展開し、ドキドキした気持ちを抱えたまま前述のJapan BPのときと同じブレイクナイト会場に向かいました。

 

 

 全然関係ないんですけど、バブルラウンドの結果待ちをしている時のブレイクナイトって本当に落ち着かないし、ご飯が喉を通らないんですよね。いやお腹は空いてるからご飯は食べるし疲労してるからビールは飲むんですけど、なんていうか、味が違うんですよね。

 美味しいご飯を食べてる時も、美味しいビールを飲んでる時も、心は常にバブルラウンドの結果を気にしているし、それがクロースであればあるほどそわそわとした気持ちが強いです。心臓に良くない。

 

 

 さて、このブレイクナイトで自分たちのチーム名がコールされた時、自分と、もう一人のパートナーである横国の先輩は雄叫びをあげました。もちろん自分たちを引っ張ってくださった先輩も喜んでいて、本当に本当に嬉しかった。先輩をブレイク落ちさせなくてよかったという安堵感と、人生で初めてのAsian大会ブレイクを達成したという喜びが、幸福感となって一気に押し寄せてきました。

 

 

 

 2日目はPreQFを勝ち、続くQFでR3で当たったチームに見事に殺されました。いやぁ、うまかったなぁ。多くの実績を残しているということはそれだけ実力があるという当たり前のことであり、それは当然、地力の差として現れます。半年ちょっと頑張った程度では埋まらないくらいの差でした(*5)。

 

 

 

 自分を引っ張り上げてくださった先輩はスピーカーアワードに入り、自分たちはQuarter Finalistとして表彰されました。

 半年前にKyushu Cupで入賞して以来の賞状は、とても重く感じました。賞状を持ってチームメイトの先輩方と写真を撮れたこと、それ自体が何よりも嬉しくて、努力してきてよかったなぁと思ったのでした。コバンザメですけど。

 

 

 

 学部3年生で、初BPブレイク、初ジャッジブレイク、初Asianブレイクを達成し、数は少ないけれどやっと形に残る「実績」というのを手にすることができて、周囲の同期や優秀なディベーターからすれば1周、2周くらい遅れた遅咲きですが、それでもやっとみんなの背中が見えるくらいの距離に立つことができた気がして。

 

 

 

 ただ、Kyushu Cupとこの大会での入賞が、のちに長々と続くQuarter Finalist芸人への入り口であるということに、この時の自分はまだ気づいていませんでした。

 

 

 

 

 季節は3年生の春。もう4年生はすぐそこでした。

 

 

 

 

*1:昨年(2018年)BP大会として開催されましたが、それより以前は関西で開催される最大規模のNA大会でした。確かこの年も70~80チームくらいが参加してたはずです。 

 

*2:この年のJapan BPは大会スケジュールの遅延という関係上、R3とR4がサイレントラウンドだったので、R2までしか自分たちの順位を知ることはできませんでした。なので自分たちがオープンでのブレイク落ちをしていた、ということを知ったのは正確には大会後でした。

 

*3:この「オーソリ」という俗語が何を指すのか、というのは難しいところです。本当にざっくり、「ディベートが強い人」というのを指しているのはわかりますが、どこからが所謂「オーソリ」になるのか、いまだに明確な定義は存在していないと思います。ディベート界の世論の中で自然と形成される価値観であるという点は一般社会のイメージ形成と変わらないとは思うのですが、その全容というか経緯を分析してみると面白いかなと勝手に思いました。

 

*4:ディベートのすすめ、The Kansaiの2大会はAsianシーズンの中でも非常に競争率が高い大会だと思います。BPと比べた時に大会の絶対数が少ないということもあり、院生や普段忙しい社会人の方がスケジュールを調整して出場されるからです。個人的にはこの「オールスター感」がとても好きです。ディシディアファイナルファンタジーをプレイしている気分になれます。

 

*5:この時のR3/QFで対戦したチームの一人は、このブログでも何度か登場している、自分が尊敬してやまない早稲田大学のとある先輩です。夏セミでお世話になった恩師であり、今なお自分の中で最もかっこよくて、強くて、お洒落で、最高に素敵な先輩です。今振り返ると、そんな先輩と同じ大会で2回も当たれるなんて本当に光栄でした。容赦なく叩き潰しにきてくださって本当にありがたかった。