ジェンダー論議:「イクメン」が孕むジェンダー不均衡と性別役割分業転換期

 ども、けろです。

 今まで散々書いてる通り、僕の特技は先延ばしと放置なのですが、そういえばと思ってこのブログの下書きを見てみたら、書きかけの記事が数本出てきて乾いた笑いが出ました。おまけに本章まで書き進めていないものもあって、自分でも「あれ、この記事って何書こうとしたんだっけ」みたいなやつもありました。流石にそれは消しました。

 その中でも「あーこれはいつか書こうと思っていたやつだな」というのがいくつかあったので、それを引っ張り出してちゃんと書き上げようと思います。

 特に最近よく耳にするようになった「イクメン」という言葉、その言葉が孕む日本社会のジェンダー不均衡と、性別役割分業転換期における評価点、みたいな感じです。

 先日までのディベート小噺とは少しテイストの違う、ブログ開設当初のジェンダーネタ路線です。決して書くネタがなくなったとかではありません。

 

 というわけで以下目次。

0.はじめに

1.「イクメン」が意味するジェンダー不均衡

2.性別役割分業転換期における「イクメン」の齎す好意的な役割

3.おわりに

 

0.はじめに

 恐らくここで改めて「イクメン」という語句の定義をする必要はないと思うんですが、一応Wikipediaの記事を貼っておきます。これから述べる内容はこの定義に沿ったものとなっています。

ja.wikipedia.org

 

 天下のWikipedia先生によれば、 「イクメンとは、日本語で子育てに積極的に関与する男性を指す俗語」だそうです。ええ分かります、既にスイカを煮物にしたみたいな気持ち悪さがありますよね。僕も最初この語句を見たときは「キッショ」って思いましたし、今もそう思ってます。

 恐らくこのブログを読んでいる稀有な読者の方々は(めちゃくちゃ良い意味で)リベラル寄りだと思うので、この語句に対して言い知れぬ違和感を感じている人が少なくない気がしています。

 とりあえずその「違和感の正体」のようなものを言語化して分析しつつ、「ゆーても今の社会で良い側面もあるんじゃね?」的な思考の断片をぽいっと投げたいと思います。

 

1.「イクメン」が意味するジェンダー不均衡

 さて、皆さん(過度な一般化)が感じたであろう(断定)、「イクメン」という語句に対して抱いた「モヤっとする違和感の正体」ですが、これは以下の2点に集約されると思っています。

 

a)対となる性別表象が存在しない

 文字を見れば分かる通り、この「イク"メン"」という言葉が指しているのは「男性」です。ここでシス/トランス等の話を持ち出すと少しややこしくなるので、とりあえずここでの「男性」はシスヘテロ男性を指すものだと思ってください。その前提で進めます。

 世の中にある性別表象は、その多くに対となる概念が語句として存在します。少年の対は少女、男子校の対は女子校、老翁の対には老婆等々、もちろん全てに対語があるわけではありませんが、このように「特定の形容詞・名詞+性別」という表象は、その多くが割と対になっています。

 しかしこの「イクメン」という(育児参画を賛美する文脈で使われる)語句には対語が存在しません。言語というのは文化や時代変化に応じて新たに作り出されるものですから、作ろうと思えば無理矢理にでも新たな造語として作ることはできます。ただ、それが「社会通念」として広く伝播するまで用いられるかどうかはまた別の話です。

 つまり現状として、「イクメン」は性別表象としては一人勝ちとなっていて、これが「不均衡」の一因になっていると僕は思います。要するに、「男性の育児参画を礼賛する表現・概念・通称は存在するのに、同等の働きをする女性を指す語句がない」という不均衡さです。キッショ。

 

b)可視化の一方で透明化が起こっている

 前段で既に軽く触れましたが、「イクメン」は確かに可視化を齎します。これまでも確かに「育児参画する男性」というものはいたかもしれませんが、それが可視化されていない社会では、社会全体の潮流としての概念を有しません。「個人的なことは政治的なこと」というのはフェミニズム文脈で有名な言葉ですが、この「イクメン」という語句によって初めて「育児参画する男性」が社会全体として好意的に認識されるようになった気がします。

 要するにみんなが「育児に参画する男性」という集合的なイメージを持つことによって、初めて社会全体に対して「常態化」が起こるということです。認識することによって初めて実存する(ように見える)、と換言できるでしょうか。

 ただ、この可視化にも問題点があります。それは単に「育児参画する男性」としての、価値中立な語句ではなく、その裏にそれを「礼賛・賛美」する価値が含まれているということです。

 これが「透明化」とセットになることでキモさが増すというわけです。

 どういうことかと言うと、前述のように「イクメン」には対語が存在しません。つまり「育児参画する男性」と同じか(間違いなく)それ以上に「育児参画する女性」がいるにも関わらず、その存在というのは透明化され続ける、言わば「いて当たり前の存在」として常態化し続けるわけです。

 というか日本社会において「育児参画する男性」の対語として「育児参画する女性」を用いるのは些か不適当な気がします。だって「男性が育児に参画するようになる」ずっと前から女性は常に育児や家事を当然の(無賃)労働として課せられていたし、「イクメン」が現れるはるか昔から「イクメンが礼賛される仕事」は女性たちにとって「当然の仕事」だったわけですから。

 ここまで聞くとキモさのオンパレード。キモさだけで年末商戦を乗り切れそうな勢いでキモい。

 今までは女性に「当然の仕事」としてそれを課し、あまつさえそれをずっと透明化してきたのに、いざ男性がその領域に踏み込んできたら「家庭的」「理想的な父親像」として社会から賛美され、事もあろうに芸能人がその賞にノミネートされたりする。「理想的な父親」とかで社会がオナニー始める前から女性たちは「理想の母親像」を押し付けられてきたんですが。っていう。

 この不均衡さに目を向けない限り、いつまでも「家事・育児を"手伝う"」とかいうズレた認識が変わらないんだろうなと思います。以前ツイッターでバズった、ドラマ『コウノドリ』のワンシーンで、子供が産まれた場面で父親になった男性がパートナーに対して「俺も"手伝う"から」と発し、医者役の綾野剛が「"手伝う"?あんたの子供だろうが」という場面が頭をよぎりました。

 「イクメン」という語句を、特に疑問を抱くことなく消費し続けるのはジェンダー的にものすごく不均衡だなと感じます。

 

2.性別役割分業転換期における「イクメン」の齎す好意的な役割

 こんだけボロクソに言っておいて、どのツラ下げて「好意的な役割」を述べるんだっていう感じがありますが、やはり物事を批判的に捉えるには賛否の両方をきちんと考慮する必要があると思うので。と言うのも、確かに「イクメン」はキモいですし、マクロ・ミクロの双方で捉えても手放しで褒められる概念ではないと思いますが、良い側面(のようなもの)もマクロな視点ではあると思うからです。

 

a)現在の社会が性別役割分業転換期である

 現代の日本社会は、その歩みは確かに遅いですが徐々に性別役割分業の呪いから解放されつつあります。一部では未だにこれを存置しようとする動きもありますが、社会全体の動きで見れば古き悪しき慣習であった、「男はソト、女はウチ」は解体されつつあるのではないでしょうか。

 これに関してあまり楽観的になりすぎるのは危険ですし、まだまだ課題は(マジで)多いですが、女性の社会進出が進んだり、男性の家庭参画が進んだりと、(特に若い世代の間では)性別によって何かを規定する、という呪縛から自由になっています。再度言いますがまだまだ課題は山積みです。カスみたいなニュースを多々見かけるし、「若い世代」と言うと一般化が過ぎるので。

 

b)「イクメン」が常態化する男性像は、徐々にその特異性を失っていく

 そういう「転換期」にあって、「イクメン」という語句は、言わば「社会を作り替える工具」としての側面を持ちます。つまり、「育児に参画する男性」を社会全体として賛美・美化することにより、後続の男性を生み出していく役割です。多分その中には、若干不純というか、「イクメンとして持て囃されたい・認められたい」という思いを抱いている男性もいるとは思います。個人的にはカスがよ〜とドロップキックをかましたい衝動に駆られますが、それをグッと堪えます。何でかというと、(個人の家庭内での関係性というミクロな視点はさておき)社会全体における性別役割の強度がこれによって弱まるのであれば、長期的には動機が不純だろうが良い気もするからです。あくまで家庭内での関係性がどうなるのかというミクロな点に目を瞑れば、ですよ?ちょっと育児や家事をやったくらいで「褒めて褒めて」みたいな顔をしてくる勘違い野郎は放っておきましょう。

 「全ての男性が(女性と同じように)育児に参画する社会」において「イクメン」という語句は何の意味も持たないし、特異性がなくなります。

 要するに、「イクメン」という語句によって生まれた、「男性を育児に向かわせようとする大きな潮流」そのものによって家庭内での家事・育児負担の男女比が解消されていくというメリットも、そこそこあるんじゃないかと。

 

3.おわりに

 まぁ何にしても「イクメンアワード(笑)」とかいうウンチコンテストはゲボをドブで煮込んだカスですが、それにしてもあらゆる側面から「イクメン」という語句・それが齎すものを毛嫌いすることもできないのかな、と。

 総合的に見ればカスな側面が強いですが、こうした新たな造語の不均衡な側面に目を向けつつ、メリットはメリットとして活かしていければ、なんだかんだ社会は前に進むのかなとも思います。小さな歪みを使って更に大きな歪みを正していく、ということです。

 

 引き続き質問箱とかでネタは募集してます。

 それでは。