ジェンダー論議:ファッションにおけるジェンダー表現(Voice Up Japanの取材受けた話)

 ども、けろです。

 そういえば以前にVoice Up Japan様からインタビューをいただくという、身に余る光栄というか滅多にない機会を頂いたのに、それをブログネタにするのを忘れていたな、と思ったので記事の紹介がてら思うことをつらつらと書いていきます。ちょっとだけディベートに関係ありそうな話もします。ちょっとだけね。

 あとこのインタビューで話せなかったこともちょびっと書きます。コミックス加筆みたいなもんです。

 

 それでは目次です。いつもみたいにふざけた前置きがなくてすみません。

0.はじめに

1.ファッションとジェンダーの結びつき

2.ディベートと関係ありそうな分析の話

 

0.はじめに

 ぶっちゃけVoice Up Japanのインタビュー記事を読んでもらえれば今回のブログ記事の目的の7〜8割は達成できるので、ブログ全部読むのめんどくさいよって人はもうこのリンクだけ読んでくれればいいです。宣伝みたいなもんです。

 なんかリンクを挿入したらパッと見英語記事っぽく見えるんですが、リンク飛ぶと日本語記事が表示されるので安心してください(?)。

voiceupjapan.org

 

1.ファッションとジェンダーの結びつき

 まぁほとんどインタビューの方で話したんですが、何を着ようがどんなメイクをしようが、それはあくまで「その人らしさ」として捉えることが対人コミュニケーションにおいては重要だよね、特に自己表現に付き纏う問題だからね、ということです。

 これはn回話したことのある自分語りですが、以前地元に帰った時とかバイト中とか、自分のファッションを揶揄されたことがあったんですね。まぁ「(性的指向として)ドッチなの?」「オカマみたいだね」等のカス発言を向けられて、脳内デスマッチでは50回ほど顔面と鳩尾に右ストレートをお見舞いしたんですが、こういう発言を目にする機会ってままあるんですよ。

 その度に僕は「うるせぇなお前に関係ないだろ暇人かよ」と思うようにしているのですが、これ自体は指摘されないと気づけないことが多いんですよね。で、これって個人的には2つの階層の異なる問題点を内包していると思うんです。

 

a)特定のファッション・表現とジェンダーを結びつけるな

 これが第一ですね。詳しいことは後述しますが、「服装」というのはどんなに突き詰めても「服装」であって、そこに他人が勝手な(ジェンダー視点での)価値を付与させるのは間違いなんですよ。学校の制服に関する論争を見る度に思うんですが、例えば「スカート」に対して「女性的」という価値を付与するのは、とても狭小な文化的視点なんですね。男性がスカートを履いてもいいし、女性がスカートを履かなくてもいい。要は「表象」それ自体は価値中立なので、それを他人が勝手にジャッジするのはめちゃくちゃキモいんです。ほっといてくれよ。

 

b)仮に結びついたとして、それを以って個人のアイデンティティをミスレプするな

 じゃあ仮に、「服装」が「特定のジェンダー観」を表現するものだったとして、それは個人の性自認アイデンティティそのものを代弁するアイコンなり得るのか。

 個人的には、必ずしもそうではないと思っています。シスヘテロ男性が(好みとして)スカートを履くことだってあるし、同じくシスヘテロ女性が(俗に言う)ボーイッシュな服装をすることだってある。

 つまり、個人の自認やアイデンティティとして「自己をどのように認識し、定義するのか」という「内向きの矢印」と、自己表現・嗜好表出として「どのような服装・ファッションをするのか」という「外向きの矢印」は全く違う概念として存在している、ということです。これを混同するから、「○○という格好をしている」=「お前のジェンダーは○○!」みたいな、あまりに短絡的な言説が生まれてしまうと思うんです。

 まぁ要するに、「俺が何を好きだろうと何をしていようと、お前に迷惑かけてねぇんだからほっとけよ」なんですが、その背景と分解・分析してみるとこうなるのかなと。

 

2.ディベートに関係ありそうな分析の話

 と、インタビューでも前段でも、「その人らしさ」が大事だよ、という話をしたんですが、この話には実は穴というか、批判的になれる箇所があったりします。その話はインタビューの本筋とはズレると思ったので話さなかったのですが、こういう発信の場があるので積極的に活用していきます。

 

a)「ジェンダーレス」も「ジェンダー」の枠組みかもしれないよ

 というのも、そもそものコンセプト・認識としての「ジェンダーレスファッション」って、社会的認識としての「ジェンダー」が機能するから初めて実存を得るというか、みんなが「これがジェンダーレスファッションか」という集合的な意識を獲得するんですよ。「ドーナツの穴」がそれ単独では存在できず、「ドーナツ」という存在の付帯条件として存在する、という感じです。

 つまり「ジェンダーレスファッション」というのが記号としての意味を持つということは、「男性←ーー→女性」のグラデーションがあり、その中の位置付けの一つとして「ジェンダーレス」があるのではないか、という。まぁ脱構築していく過程の中での話なので、仮に遠い未来でみんなが「ジェンダーレスファッション」というものをしていた場合、そこに記号的役割としての「ジェンダーレス」というのは意味をなくなりますが。「ブランド商品」に対する対抗言説として生まれた「無印良品」という記号が、いつの間にか新たな記号として消費されるようになった、というのと少し似ているかもですね。「ジェンダーレス」という「新たなジェンダー」。

 

 そこでちょっと思い出したのが、今年のK-Cup(BPの方)のR1のTH opposes the excessive social trend of criticizing beauty/fashion brands that emphasize femininity/masculinity.という論題です。要は批判ばっかりするのよくないよ!っていうやつなんですが、ラウンドが終わった後に個人的に気になったのは"そもそもファッションやコスメにおけるfemininity/masculinityってなんだ?"という点です。

 恐らく僕自身が漠然と脳裏に浮かんだイメージと同じようなイメージをみなさん持たれていると思うんですが、なんとなく「男らしいファッション」「女らしいファッション」という記号に付随してくるイメージがあると思います。

 そうした、ジェンダーを表象するファッションの批判・アンチテーゼとして登場したのが「ジェンダーレス」という言葉だと思うんですが、実はこれって少し違う気もするんですよ。

 というのも、例えば「フェミニンな格好」として紹介されるフレアスカートとかワンピースとか花柄のシャツとか、フリルのついた服とか、そういうのって本質的には「ジェンダー」と関係のない「そういう服」のはずなんですよ。「フリルのついた服」というのはあくまで「フリルのついた服」であって、そこに本来ならジェンダー的な価値というのは存在しない。他の形状・意匠の服についても同様です。

 「男らしい服」として紹介される服装も同様ですね。ワイドなジーンズとかシルバーアクセとか、それ単体では「ワイドジーンズ」「シルバーアクセ」としての記号しか持たないはず。にも関わらず僕たちはそれを見ると「男らしい格好」と認識する。

 本来なら特定の価値判断を有しない、記号としての服やアクセサリーが、社会において生活をしていくと特定の価値を付与され、それを身に纏う人はその価値を反映した記号として認識される(まぁ作り手側は最初から特定の価値・メッセージを付与して作っている場合もありますが)。

 何やら小難しい話になってきましたが、すんごいざっくり結論を言えば「結局ジェンダーレスって実はジェンダーの枠組みの中での批判でしかないんじゃ?」っていう話です。これ自体が良い悪いの話ではなく、持つ視点の数・位置を変えてみると色々な考えを持てるようになるのではっていう批判です。

 突き詰めると「ジェンダー」という概念そのものを脱構築して、「個人」をきちんと認識してそのアイデンティティがそのまま受容される社会が理想ではあるんですよ。恐らく今はその過渡期であって、そういう転換期においては(前回のイクメン記事でも似たようなことを書きましたが)既存の枠組みを利用して批判的眼差しを突きつけるというのは非常に有用な気がします。程度の軽い歪みを持って大きな歪みを正す的なね。

 

 要するに「ジェンダーレス」という単語を僕たちが使用する時には、実は既存の枠組みを少しだけ再強化している可能性はないか、という視座自体は頭の隅っこに持っておいた方が良いかもしれないということです。手放しで使うには少しだけ不安定な言葉かもしれないので。

 

 

 書いた文章を読み返してみて思ったんですが、僕は驚くほど「というのも」「要するに」という接頭語を多様していますね。全然要せていない。ごめんちょ。

 と、インタビュー記事の宣伝と、それに対する補足をしてみた回でした。

 

 それでは。