【雑感】久保帯人のファンクラブがすごい話

 ども、けろです。

 緊急事態宣言とかいう(個人的には)愚策極まりない政策、早く終わってほしいですね。暇すぎて心がすり減っていくので。あと経済も壊滅的なダメージを受けるので、ここはうまいこと医療とのバランスを取ってほしいと思います。ロックダウンやら戒厳令を出せないことは、日本の強みだと思っているので、どうか健康至上主義に走りすぎないでくれ、と切に願っています。

 と、政治的な主張はここら辺にして、本題です。

 以前唐突に書いた考察記事と同様、まじでディベートに関係ない記事、趣味100%です。ディベートやらジェンダーに関する更新を期待していた方、すみません。

kerokero0441.hatenablog.com

 

 以下目次です。

 

0.はじめに

 

 僕のことをご存知の方は何を今更と思いますが、僕は狂信的なBLEACH、もとい久保帯人作品信者です。小学校高学年の時に近所のフリーマーケットで出品されていたBLEACHの単行本をふとしたきっかけで読んだ時から頭の先端までどっぷりその世界観に魅了された純粋培養の厨二病患者です。

 時折考察者っぽくああだこうだとTwitter上で早口ツイートをしていますが、根は一人の読者なので、基本的には作者様から与えられる作品を読んでは妄想を膨らませています。

 正直、考察者を名乗ってyoutube動画でも作ろうかと思ったことは一度や二度ではないんですが、既に先達者が多くいらっしゃる上に、BLEACH考察界隈では絶対に越えられない方が一人いらっしゃるので、自分はあくまでも一人の読者としておとなしくしていようと思ったわけです。

 ちなみにその考察界隈の神様は下記にリンクを貼る方です。考察の深さ、正確さ、どれをとっても一級品です。暇な方はぜひ。

hoasissimo.hatenablog.com

 

1.ファンクラブがすげぇ

 

 本題です。この度1月18日に久保帯人ファンサイトがオープンしました。めでたいですね。

klub-outside.com

 

 注目したいのが「BLEACHファンクラブ」ではなく久保帯人ファンクラブ」という点です。

 ファンクラブは有料登録となっていて、Elite(年会費8000円)とEntry(月額500円)の2コースから選べるんですが、登録しておくと久保先生書き下ろしのイラストだったり質問コーナーだったり飼い犬の可愛い写真だったりと、先生のプライベートが除けるようになっています。

 ここに載っているイラストは他のどの媒体にも載っていない(言わば"落書き")もので、ファンとしては"滾"りますよね。涎どばどばですよ。

 

 あとですね、このファンクラブのネーミングとロゴデザインが"やばい"んですよ。

 久保先生といえば言葉遊びだったりデザインにこっそり仕掛けを施したりするのが特徴なんですが(BURN THE WITCH読切の最終ページはやばすぎて絶叫しました)、このサイトロゴも例に漏れず。

 

f:id:kero_0441:20210120144755p:plain

 

 わかりますかね。よく見るとK(l)u b O(u)t(s)i t e の文字列が隠れてるんですよ。dの横線をあえて縦の線からはみ出させることでtを含ませる技法、ちょっと天才すぎますね。

 

 そのためにClubをKlubにしたのかというと、実はKlubというドイツ語の単語があるんですね、意味はClubと同じ「クラブ」です。ドイツ語といえば滅却師(macの予測変換で一発で出るのすごい)を彷彿とさせるし、Outside、つまり外側ということでジャンプ等の雑誌媒体には載らない、ここだけのコンテンツが載ってるよという意味も含まれていて、すごいの一言です。感動で前が見えない。

 

2.読者↔︎漫画家の新しい関係性の構築

 

 と、ここまではあくまで狂ったファンの熱狂でしたが、ちょっとだけ真面目というか感心というか、個人的に面白いなと思ったことを書きます。

 先日公開されたジャンプフェスタオンラインで久保先生が語っていたんですが、それがめちゃくちゃ思慮深いというか、新しい時代を齎すかもしれないなぁと思いました。

 

youtu.be

 

 16:00あたりからになりますが、ファンクラブに関して久保先生が「読切は面白いけど連載が売れなくて漫画家を辞めちゃう人がいて、それがもったいない、なんとかしたいと思っていた。ファンがそういう好きな漫画家を応援できる形があればいいな」と口にしています。

 

 今までの読者と漫画家の関係って、良くも悪くも非対称だったんですよ。

 というのも読者が好きな漫画家に対してできることって、「単行本を買う」「雑誌のアンケートを出す」ことくらいなんです。

 

 前者に関しては一番直接的な応援(印税が入るので)ですが、後者はもしかしたら馴染みがないかもしれません。ジャンプとかマガジンとか、その手の週刊誌は毎週読者アンケートというものを行っていて、その人気不人気によって作品の打ち切りとか掲載順位とかが決まったりします(他誌はちょっと詳しくないですが、ジャンプは割とアンケート順位によって掲載順位が決まってたりしますし、アンケート順位が低いと連載会議で打ち切り対象になったりします)。

 

 よく「単行本の売り上げが良ければアンケートが低くても大丈夫」と言われたりしますが、シャーマンキングは最後打ち切りでしたし、ぬらりひょんの孫も姉妹誌に移籍になって最終回(駆け足気味)を迎えました。ので、本当にその漫画家を応援したかったら単行本を買う他、掲載誌のアンケートを毎週出す、ということをしなければいけません。

 ただ、それをしたからといっても読者の絶対数が少なければ他の作品との競争に負けてしまいますし、そうなるといくら好きな作品でも打ち切りの憂き目にあってしまいます。

 で、この決定をしているのは雑誌の編集部なので、読者は漫画家を応援したくても応援できない可能性があるわけです。

 

 今回の作者ファンクラブは、その読者と漫画家の関係性を再構築するのではないか、と思います。

 今までは読者↔︎掲載誌↔︎漫画家という、間接的な応援形態だったものが、編集部や出版社を介さない、読者↔︎漫画家という直接的な繋がりになるということです。もちろん作者自身の知名度や作品のネームバリューに依存するので全ての漫画家がこの恩恵に預かれるかといえば違いますし、このファンクラブ運営だけで食っていけるようになるかといえばそんなに甘くないのかなとも思います。

 

 それでも、資本主義社会の中で我々が依存せざるを得なかった、私企業が提供する雑誌というプラットフォームから脱し、個人間での繋がりを基盤に金銭的な援助ができるというのは、とても面白く、新しい試みだと感じました。

 それはちょうど、アイドル事務所という私企業に所属するアイドルへのアンチテーゼとして、アイドル個人が自身をマネジメントし、撮影会や握手会をセッティングする「個人アイドル」が登場したことと似ている気がします。どちらが良いとか、優れているとかいう話ではなく、双方が存在することで多様化するという、資本主義的構図の中での生き方の模索ですね。

 

 というわけで、全人類このファンクラブに登録しましょう。

 住民票が発行されたり推しキャラを選べたりするので、めちゃくちゃ面白いですし、何よりサイトのUIが全部オサレで最高です。

 

 それでは。

 

雑感:フェミニズム書店、エトセトラブックスに行ってきた話

 ども、けろです。

 気づかないうちに2021年になってからもう2週間が経過したらしいです。この調子でいくとあっという間に1月が終わりそうだし、あっという間に社会人2年目が終わりそう。今年やったことといえばエクセルの関数をいくつか覚えただけです。オーマイジーザス(無宗教)。

 

 さて、2021年一発目のブログを1月に更新できることに自分が一番驚いているのですが、今回は雑談的なルポ的記事です。

 というのも2日ほど前にこのようなツイートを見かけて、それがたまたま直近の出来事だったので、現地行くがてらブログにするか〜と思ったので。

 

 

 もうこれだけでワクワクしてきません?「フェミニズムの本屋」って最高の空間じゃないですか。これだけで関東圏に上京しててよかったと思いました。

 

 

 というわけでインドア派の自分には珍しく、アウトドアの現地ルポです(といっても店内でカメラパシャパシャするのは気が引けたので文メインです)。どうぞ。

 

・アクセス

 上記のツイートに書いてありますが、井の頭線新代田駅から徒歩1分、大体100メートルくらいでした。まじでアクセスが良い。どれくらいアクセスが良いかというと、空間把握能力がゴミカスでGoogleマップ見ながらでも道に迷える僕がすんなり辿り着けるくらい近かったです。駅出て目の前の信号渡ったらすぐです。

 ちなみに僕は最初「新代田」が読めませんでした。方向感覚だけじゃなく地理も勉強した方が良さそうです。

 あと、下北沢駅が一つ隣なので、ここで本を買って歩いて下北沢散策とかがめちゃくちゃいい散歩ルートでした。本屋デートにぜひ。

 

・店内の雰囲気

 上記のツイートでなんとなくお分かりだと思いますが、綺麗でした。今日オープンなので当たり前っちゃ当たり前ですが。

 白ベースに木目調の本棚のコントラストがおしゃれで、デザイン的にもイケてました(語彙)。

 

・品揃え

 フェミニズム書店、ということもあって、古今東西の色んなジェンダーに関する書籍が揃ってました。

 戦争、DV、セックスワーク天皇制、ハラスメント、男性ジェンダージェンダー関係の小説等々、フィクションノンフィクション作品が結構ありました。漫画もそうですし、ウルストンクラフトやヴァージニア・ウルフ等の著名な女性作家の訳書も置いてあったのは(元英文学専攻として)感慨深かったです。

 ただ、これは店のスペース上仕方ない側面だとは思いますが、ジャンルを広くしようとするとどうしてもレパートリーを絞らざるを得ないというか、「もっと色々取り扱ってほしい専門書・新書あるよなぁ」という感はありました。

 要するに、「多くの人にフェミニズムを身近に感じてほしい」というコンセプトの都合上、削らざるをえなかった書籍たちがあるな、と。これは書店側を批判しているわけではなく、訪れる客層に依るのかなと。もちろん目新しい書籍もたくさんあったし、興味を惹かれるものも多くあったけど、めちゃくちゃ専門性のある書籍を求めて行くと少しすれ違いが起きてしまうかもしれません(それでも専門的な書籍はあるので、近い人は一度行ってみるといいかと思います)。

 

・買った本たち

 本当は「気になる1冊くらい買おう〜」みたいなノリだったのですが、思っていたより面白そうな書籍があり、結局迷いに迷って2冊買いました。

 田房永子さんの『他人のセックスを見ながら考えた』と、レイチェル・ギーザ著・冨田直子訳の『ボーイズ〜男の子はなぜ「男らしく」育つのか』の2冊です。

 本当は天皇制と戦争史、PTSDに関する書籍も買いたかったのですが、お財布が悲鳴をあげていたので泣く泣く諦めました。くう。

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 とりあえず積読化を避けるために休みの日とかにゆったりと読んでいこうと思います。幸いにも最近大掃除をして部屋の中がスッキリしたので、優雅に紅茶でもしばき倒しながらこの本たちと積読をしばきたいと思います。
 

 余談ですが、本を買うとつけてもらえるブックカバーがめちゃくちゃ可愛かったので写真で紹介します。"I READ FEMINIST BOOKS"の文字の強さ、最高にロックで好きです。

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 さらに余談ですが、訳書って買うか微妙に迷いませんか。訳者の力量や表現力によって元の文やニュアンスがどう変わってしまうのかという不安感と、やっぱり読めるなら原書を買って原文そのままの表現や語彙でぶん殴られたいって思うんです(特定の訳者に対する批判等ではなく、訳書全般に対する個人的な思いです)。

 まぁ、だからと言って自分はガチで英語ができないので洋書読むのは邦書の何倍も体力使うので、コスパ考えるなら訳書なんですけどね。でも洋書のペーパーバックってデザインがスタイリッシュでかっちょいいんですよねえええ。

 

 

 というわけで、フェミニズム書店エトセトラブックスに行った話でした。

 あんまり生産的な内容じゃなくてすみません。もし気になった方がいたらふらっと覗きに行ってみてください。

 

 それでは。

ジェンダー論議:「性的同意」ってなんだ?

 ども、けろです。

 怒涛の勢いで更新していますが、これは未来の自分が「あの時は頑張ったし」とサボる言い訳をするためでもあります。なのでこの連続更新が続いた分だけ盛大にサボるつもりということです。実質冨樫。

 以前ブログで「ジェンダーに関する単語とかピックアップして紹介していきます!」とイキったこと言ってたのに、それを見事にすっぽかしていることに気づいたので今回それに取り組んでみます。

 初回(といっても「イクメン」とか「ファッションとジェンダー」とかのブログを書いているので、これが初回かというと違う気もしますが)は最近SNS上でもホットな話題である「性的同意(sexual consent)」についてです。

 そんなわけで以下目次です。

 

0.はじめに

1.諸要因による合意形成能力の喪失

2.外部要因によって生まれる関係性の不均衡

3.おわりに

 

0.はじめに

 ぶっちゃけ僕が語るよりも、以下に貼る動画等を見てもらう方がはるかに効用が高い気がしています。というわけで「性的同意」について分かりやすく解説してくださってる動画のリンクを貼っておきます。時間がないよ、という人は最後の紅茶の動画だけでも見てってください。以前Twitterでバズったやつです。

 

youtu.be

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 要するに「性的同意」とは、「対等な関係性で・明確な同意が取れない場合セックスをするな」ということです。

 本来ならこのシンプルな説明だけで終わってもいいんですが、曲がりなりにも「ジェンダー論議」とタイトルをつけていますし、世の中にはこの分かりやすい文章すら読めない人がいます。文字は読めるのに文章・文の意味を理解できないの、高校の現代文で何を習ってきたんでしょうか。日本って識字率高いはずなのに。多分そういう人達って「作者の気持ちを答えなさい」っていう問題に対して「締め切りに追われてたと思いますw」みたいな回答することを「こんな風に答えちゃう自分カッケーwww」って思い込んでると思います。これは偏見です。

 

1.諸要因による合意形成能力の喪失

 じゃあ一体どんな要因がこの「合意形成」を阻害しているんでしょうか。

 まず(対外的な関係性ではなく)当人の合意形成能力を妨げる要因について列挙していきます。

 

a)アルコール・薬物等による意識の混濁

 これが一番分かりやすいと思います。当人がきちんとした「合意形成」を行うためには、まずその人の意識がしっかりしている必要があります。そうでないと「自分がいつ・どこで・誰と・何をするのか」を合理的に考えることができませんから。ディベートでもよく聞きますよね、rational calculationってやつです。

 アルコールや薬物はこれを大きく阻害します。何せ脳を直接麻痺させる効用を持っているので。酩酊状態のことをよく覚えていなかったりするように、これらを摂取した直後の人間の意識というのは極めて白濁した状態になります。

 某大学のテニスサークルが女子学生の飲み物にアルコール度数の極めて高い「スピリタス」をカプセル状にして入れたことが問題視されたのも、これが理由です。馬鹿かよっていう。

 巷では「アルコール度数が高いのに美味しくぐいぐい飲めてしまうカクテル」を指して「レディキラー」という名称があります。カルーアミルクスクリュードライバーロングアイランドアイスティー、ブラックルシアン、セックスオンザビーチとかが挙げられます。

 あとは睡眠薬等の薬物ですね。これも個人の意識を脆弱にし、合意形成を曖昧にしまう。

 例えばバーで男性とお酒を飲んでいて、席を離れた隙に飲み物に薬を入れられていた、といった被害をよく耳にします。そういったことを防ぐために、ハルシオンサイレース等の睡眠薬には水に溶けると溶液が青くなる色素が混入されています。

 が、悪知恵と股間が直列繋ぎになっているチンパンジー達はこれでもめげず、チャイナブルーや楊貴妃、スカイダイビング等の、「元の色が青いカクテル」を女性に勧めたりするそうですね。これを教訓に、「一度席を離れたらその飲み物には口をつけるな」という対応策があったりしますが、なんで被害に遭う側がこんなに気をつけなきゃいけないのか……と辟易しますね。こういうのを聞くにつれ、科学的去勢は最終手段としてありなんじゃないかとちょっと考えます。

 個人名を挙げることは(情報の正確性やプライバシー等々)色々な観点から伏せますが、僕たちが属するディベートコミュニティの中でも「お酒をたくさん飲まされて、気づいたらホテル/家にいた」といったような普通に悍ましい話をいくつか聞いたことがあるので、まじで他人事じゃないなと思います。というかディベート上では個人の尊厳とか人権の話を公明正大に話す人達がプライベートでそういうことをしているというの、割とまじで最悪に近いと思いますね。普通に犯罪だし。カスをドブで煮込んだ後に雑巾で処理した臭いがしそう。だから英国議会を模した競技とはいっても舌の枚数まで真似る必要ないんですってば。 

 

b)年齢的要因

 少し話が逸れたので本題に戻ります。

 アルコールや薬物等の外部要因以外にも、当人が合理的に合意形成できない要因があります。それが「年齢」です。

 例の如く番人の味方ウィキペディア先生の力を借りると、「性的同意年齢」とは「精神的・機能的に発達した年齢であること」を指します。まぁ国によって様々ですが、この年齢以下だと「合意形成ができない」とされます。要はどんな理由があろうと強姦としてしょっぴかれるぞってことです。

 よくSNS上のペドフィリア論争で児童の権利擁護派が(誤って)用いる意見として、「児童は性的合意ができないのだからペドフィリアを認めてはいけない」というのがあります。この意見自体は、命題としては正しいです(ラブドール論争等で用いられたりするので、文脈は誤っているよ、ということです)。

 つまり身体の発育・発達が性行為に充分足り得ていなかったり、精神的に自身のことを客観視できていなかったりするからダメ、ということです。

 

 余談ですが、日本の性的同意年齢は13歳で先進国の中でも著しく低く、これを引き上げようという動きがありますね。個人的には反対する理由がないです。

 

ja.wikipedia.org

 

 

2.外部要因によって生まれる関係性の不均衡

 では「当人に起因する合意形成」ではなく、外部要因としてはどのようなものがあるでしょうか(アルコールは外部要因としての側面も強いですが、アルコールは摂取した人の「脳や身体」といった内部に影響を及ぼすので、便宜上ここには位置付けません)。

 

a)社会的身分

 性行為が2人(以上)の関係性で行われる以上、当事者の関係性というのが「断りにくい・断れない」という状況を作り出すことがあります。

 例えば「学生と教授」「上司と部下」「先輩と後輩」等の、権威勾配を齎す関係性です。

 以前某大学の教授が、自身の研究室の大学院生に対してハラスメントを行っていたというのがニュースになりましたね。性的同意とは少し遠いですが、これも権威勾配を利用して「告発できない雰囲気・関係性」の下で相手に加害を行うという点では同じです。

www.jiji.com

 

 これは、「断れば自分の(研究室・社内・部活内での)立場に不利益があるかもしれない」という恐れから「断れない」という状況を作り出してしまいます。

 ただ、不均衡な関係性を悪用している場合ではなく、真剣に交際を求めたり性的な関係を要求している場合でもこれが作用することがあるので、結構複雑な問題です。もちろん、だからと言って「そんなこと言われたら何にもできないじゃないか!(股間ビンビン)」みたいなチンパンジー発言を容認してはいけませんし、するつもりもありません。自分の欲求を満たすことを他人を加害する免罪符にするな。

 

b)性別

 これも上記の社会的立場に起因することがありますが、性別による不均衡も往々にして発生します。

 というのも、日本において「性的な関係を要求する」立場にあるのは、割と男性であることが多いからです(もちろん女性から要求する場合もありますし、最近はオープンになる人が増えていますので、あくまで傾向の話です)。

 こういう時に、例えば恋人関係において「断ったら彼に申し訳ないから……」という理由から性的関係を断れなかったり、本当は気分じゃないのに渋々行為に応じる、というケースがあります。もちろん性別を逆にしても起こりますよ。

 要するに「男のプライド」みたいなみみっちい社会通念であったり、「恋人間ではそうして当たり前」という暗黙の了解がこれを招いており、本来であれば「ノー」であるはずなのにそれが言えずに……という問題があります。これも性的同意の観点からは「カス」です。

 

c)時間・空間的プレッシャー

 上述の内容に付随する形になりますが、特定の空間という、特殊・限定的な条件によって相手にプレッシャーを与えるというのもあります。

 例えば「2人で飲みに行く」「男性(女性)の家に遊びに行く」「夜に2人で会う」といった条件ですね。これを勝手に「セックスの同意」と勘違いしている人がたくさんいます。「2人で飲みに行く」のは、あくまで「2人で飲みに行くことへの同意」であって、その後の関係がどうなるかはその場できちんと確認する必要があります。別に家でお泊まりする約束してたからってそれがイコールセックスするかどうかっていうのは違いますしね。

 これを何か別のものと履き違えて「そんなのいちいち確認してたらムードが崩れる!」とか宣う輩がいますが、あれは「私は相手の気持ちを確認する努力をしたくありません!でもセックスはしたいです!」というチンパンジーとしての自己紹介なので無視しましょう。

 

3.おわりに

 まとめると「相手が断りにくい関係性・空間」や「合意形成できない状況下」では性的同意というものはありません。そういう場合はセックスをすべきではないし、セックスをしたいのであればきちんとした対等な関係・状況を作ってからスマートに申し込んでみましょうね、という話でした。

 これは余談ですが、何かを揶揄したり卑下するときに「チンパンジー」という語句を用いるのは種差別的というか、人間を上位種として捉えているような節があるよなぁという思いもあるのですが、あくまでただの比喩表現として溜飲を下げてください。燃やさないで。

 

 要望があればこの手の「ジェンダーにまつわるお話」を少しずつしていこうと思っています。

 

 それでは。

ジェンダー論議:ファッションにおけるジェンダー表現(Voice Up Japanの取材受けた話)

 ども、けろです。

 そういえば以前にVoice Up Japan様からインタビューをいただくという、身に余る光栄というか滅多にない機会を頂いたのに、それをブログネタにするのを忘れていたな、と思ったので記事の紹介がてら思うことをつらつらと書いていきます。ちょっとだけディベートに関係ありそうな話もします。ちょっとだけね。

 あとこのインタビューで話せなかったこともちょびっと書きます。コミックス加筆みたいなもんです。

 

 それでは目次です。いつもみたいにふざけた前置きがなくてすみません。

0.はじめに

1.ファッションとジェンダーの結びつき

2.ディベートと関係ありそうな分析の話

 

0.はじめに

 ぶっちゃけVoice Up Japanのインタビュー記事を読んでもらえれば今回のブログ記事の目的の7〜8割は達成できるので、ブログ全部読むのめんどくさいよって人はもうこのリンクだけ読んでくれればいいです。宣伝みたいなもんです。

 なんかリンクを挿入したらパッと見英語記事っぽく見えるんですが、リンク飛ぶと日本語記事が表示されるので安心してください(?)。

voiceupjapan.org

 

1.ファッションとジェンダーの結びつき

 まぁほとんどインタビューの方で話したんですが、何を着ようがどんなメイクをしようが、それはあくまで「その人らしさ」として捉えることが対人コミュニケーションにおいては重要だよね、特に自己表現に付き纏う問題だからね、ということです。

 これはn回話したことのある自分語りですが、以前地元に帰った時とかバイト中とか、自分のファッションを揶揄されたことがあったんですね。まぁ「(性的指向として)ドッチなの?」「オカマみたいだね」等のカス発言を向けられて、脳内デスマッチでは50回ほど顔面と鳩尾に右ストレートをお見舞いしたんですが、こういう発言を目にする機会ってままあるんですよ。

 その度に僕は「うるせぇなお前に関係ないだろ暇人かよ」と思うようにしているのですが、これ自体は指摘されないと気づけないことが多いんですよね。で、これって個人的には2つの階層の異なる問題点を内包していると思うんです。

 

a)特定のファッション・表現とジェンダーを結びつけるな

 これが第一ですね。詳しいことは後述しますが、「服装」というのはどんなに突き詰めても「服装」であって、そこに他人が勝手な(ジェンダー視点での)価値を付与させるのは間違いなんですよ。学校の制服に関する論争を見る度に思うんですが、例えば「スカート」に対して「女性的」という価値を付与するのは、とても狭小な文化的視点なんですね。男性がスカートを履いてもいいし、女性がスカートを履かなくてもいい。要は「表象」それ自体は価値中立なので、それを他人が勝手にジャッジするのはめちゃくちゃキモいんです。ほっといてくれよ。

 

b)仮に結びついたとして、それを以って個人のアイデンティティをミスレプするな

 じゃあ仮に、「服装」が「特定のジェンダー観」を表現するものだったとして、それは個人の性自認アイデンティティそのものを代弁するアイコンなり得るのか。

 個人的には、必ずしもそうではないと思っています。シスヘテロ男性が(好みとして)スカートを履くことだってあるし、同じくシスヘテロ女性が(俗に言う)ボーイッシュな服装をすることだってある。

 つまり、個人の自認やアイデンティティとして「自己をどのように認識し、定義するのか」という「内向きの矢印」と、自己表現・嗜好表出として「どのような服装・ファッションをするのか」という「外向きの矢印」は全く違う概念として存在している、ということです。これを混同するから、「○○という格好をしている」=「お前のジェンダーは○○!」みたいな、あまりに短絡的な言説が生まれてしまうと思うんです。

 まぁ要するに、「俺が何を好きだろうと何をしていようと、お前に迷惑かけてねぇんだからほっとけよ」なんですが、その背景と分解・分析してみるとこうなるのかなと。

 

2.ディベートに関係ありそうな分析の話

 と、インタビューでも前段でも、「その人らしさ」が大事だよ、という話をしたんですが、この話には実は穴というか、批判的になれる箇所があったりします。その話はインタビューの本筋とはズレると思ったので話さなかったのですが、こういう発信の場があるので積極的に活用していきます。

 

a)「ジェンダーレス」も「ジェンダー」の枠組みかもしれないよ

 というのも、そもそものコンセプト・認識としての「ジェンダーレスファッション」って、社会的認識としての「ジェンダー」が機能するから初めて実存を得るというか、みんなが「これがジェンダーレスファッションか」という集合的な意識を獲得するんですよ。「ドーナツの穴」がそれ単独では存在できず、「ドーナツ」という存在の付帯条件として存在する、という感じです。

 つまり「ジェンダーレスファッション」というのが記号としての意味を持つということは、「男性←ーー→女性」のグラデーションがあり、その中の位置付けの一つとして「ジェンダーレス」があるのではないか、という。まぁ脱構築していく過程の中での話なので、仮に遠い未来でみんなが「ジェンダーレスファッション」というものをしていた場合、そこに記号的役割としての「ジェンダーレス」というのは意味をなくなりますが。「ブランド商品」に対する対抗言説として生まれた「無印良品」という記号が、いつの間にか新たな記号として消費されるようになった、というのと少し似ているかもですね。「ジェンダーレス」という「新たなジェンダー」。

 

 そこでちょっと思い出したのが、今年のK-Cup(BPの方)のR1のTH opposes the excessive social trend of criticizing beauty/fashion brands that emphasize femininity/masculinity.という論題です。要は批判ばっかりするのよくないよ!っていうやつなんですが、ラウンドが終わった後に個人的に気になったのは"そもそもファッションやコスメにおけるfemininity/masculinityってなんだ?"という点です。

 恐らく僕自身が漠然と脳裏に浮かんだイメージと同じようなイメージをみなさん持たれていると思うんですが、なんとなく「男らしいファッション」「女らしいファッション」という記号に付随してくるイメージがあると思います。

 そうした、ジェンダーを表象するファッションの批判・アンチテーゼとして登場したのが「ジェンダーレス」という言葉だと思うんですが、実はこれって少し違う気もするんですよ。

 というのも、例えば「フェミニンな格好」として紹介されるフレアスカートとかワンピースとか花柄のシャツとか、フリルのついた服とか、そういうのって本質的には「ジェンダー」と関係のない「そういう服」のはずなんですよ。「フリルのついた服」というのはあくまで「フリルのついた服」であって、そこに本来ならジェンダー的な価値というのは存在しない。他の形状・意匠の服についても同様です。

 「男らしい服」として紹介される服装も同様ですね。ワイドなジーンズとかシルバーアクセとか、それ単体では「ワイドジーンズ」「シルバーアクセ」としての記号しか持たないはず。にも関わらず僕たちはそれを見ると「男らしい格好」と認識する。

 本来なら特定の価値判断を有しない、記号としての服やアクセサリーが、社会において生活をしていくと特定の価値を付与され、それを身に纏う人はその価値を反映した記号として認識される(まぁ作り手側は最初から特定の価値・メッセージを付与して作っている場合もありますが)。

 何やら小難しい話になってきましたが、すんごいざっくり結論を言えば「結局ジェンダーレスって実はジェンダーの枠組みの中での批判でしかないんじゃ?」っていう話です。これ自体が良い悪いの話ではなく、持つ視点の数・位置を変えてみると色々な考えを持てるようになるのではっていう批判です。

 突き詰めると「ジェンダー」という概念そのものを脱構築して、「個人」をきちんと認識してそのアイデンティティがそのまま受容される社会が理想ではあるんですよ。恐らく今はその過渡期であって、そういう転換期においては(前回のイクメン記事でも似たようなことを書きましたが)既存の枠組みを利用して批判的眼差しを突きつけるというのは非常に有用な気がします。程度の軽い歪みを持って大きな歪みを正す的なね。

 

 要するに「ジェンダーレス」という単語を僕たちが使用する時には、実は既存の枠組みを少しだけ再強化している可能性はないか、という視座自体は頭の隅っこに持っておいた方が良いかもしれないということです。手放しで使うには少しだけ不安定な言葉かもしれないので。

 

 

 書いた文章を読み返してみて思ったんですが、僕は驚くほど「というのも」「要するに」という接頭語を多様していますね。全然要せていない。ごめんちょ。

 と、インタビュー記事の宣伝と、それに対する補足をしてみた回でした。

 

 それでは。

ジェンダー論議:「イクメン」が孕むジェンダー不均衡と性別役割分業転換期

 ども、けろです。

 今まで散々書いてる通り、僕の特技は先延ばしと放置なのですが、そういえばと思ってこのブログの下書きを見てみたら、書きかけの記事が数本出てきて乾いた笑いが出ました。おまけに本章まで書き進めていないものもあって、自分でも「あれ、この記事って何書こうとしたんだっけ」みたいなやつもありました。流石にそれは消しました。

 その中でも「あーこれはいつか書こうと思っていたやつだな」というのがいくつかあったので、それを引っ張り出してちゃんと書き上げようと思います。

 特に最近よく耳にするようになった「イクメン」という言葉、その言葉が孕む日本社会のジェンダー不均衡と、性別役割分業転換期における評価点、みたいな感じです。

 先日までのディベート小噺とは少しテイストの違う、ブログ開設当初のジェンダーネタ路線です。決して書くネタがなくなったとかではありません。

 

 というわけで以下目次。

0.はじめに

1.「イクメン」が意味するジェンダー不均衡

2.性別役割分業転換期における「イクメン」の齎す好意的な役割

3.おわりに

 

0.はじめに

 恐らくここで改めて「イクメン」という語句の定義をする必要はないと思うんですが、一応Wikipediaの記事を貼っておきます。これから述べる内容はこの定義に沿ったものとなっています。

ja.wikipedia.org

 

 天下のWikipedia先生によれば、 「イクメンとは、日本語で子育てに積極的に関与する男性を指す俗語」だそうです。ええ分かります、既にスイカを煮物にしたみたいな気持ち悪さがありますよね。僕も最初この語句を見たときは「キッショ」って思いましたし、今もそう思ってます。

 恐らくこのブログを読んでいる稀有な読者の方々は(めちゃくちゃ良い意味で)リベラル寄りだと思うので、この語句に対して言い知れぬ違和感を感じている人が少なくない気がしています。

 とりあえずその「違和感の正体」のようなものを言語化して分析しつつ、「ゆーても今の社会で良い側面もあるんじゃね?」的な思考の断片をぽいっと投げたいと思います。

 

1.「イクメン」が意味するジェンダー不均衡

 さて、皆さん(過度な一般化)が感じたであろう(断定)、「イクメン」という語句に対して抱いた「モヤっとする違和感の正体」ですが、これは以下の2点に集約されると思っています。

 

a)対となる性別表象が存在しない

 文字を見れば分かる通り、この「イク"メン"」という言葉が指しているのは「男性」です。ここでシス/トランス等の話を持ち出すと少しややこしくなるので、とりあえずここでの「男性」はシスヘテロ男性を指すものだと思ってください。その前提で進めます。

 世の中にある性別表象は、その多くに対となる概念が語句として存在します。少年の対は少女、男子校の対は女子校、老翁の対には老婆等々、もちろん全てに対語があるわけではありませんが、このように「特定の形容詞・名詞+性別」という表象は、その多くが割と対になっています。

 しかしこの「イクメン」という(育児参画を賛美する文脈で使われる)語句には対語が存在しません。言語というのは文化や時代変化に応じて新たに作り出されるものですから、作ろうと思えば無理矢理にでも新たな造語として作ることはできます。ただ、それが「社会通念」として広く伝播するまで用いられるかどうかはまた別の話です。

 つまり現状として、「イクメン」は性別表象としては一人勝ちとなっていて、これが「不均衡」の一因になっていると僕は思います。要するに、「男性の育児参画を礼賛する表現・概念・通称は存在するのに、同等の働きをする女性を指す語句がない」という不均衡さです。キッショ。

 

b)可視化の一方で透明化が起こっている

 前段で既に軽く触れましたが、「イクメン」は確かに可視化を齎します。これまでも確かに「育児参画する男性」というものはいたかもしれませんが、それが可視化されていない社会では、社会全体の潮流としての概念を有しません。「個人的なことは政治的なこと」というのはフェミニズム文脈で有名な言葉ですが、この「イクメン」という語句によって初めて「育児参画する男性」が社会全体として好意的に認識されるようになった気がします。

 要するにみんなが「育児に参画する男性」という集合的なイメージを持つことによって、初めて社会全体に対して「常態化」が起こるということです。認識することによって初めて実存する(ように見える)、と換言できるでしょうか。

 ただ、この可視化にも問題点があります。それは単に「育児参画する男性」としての、価値中立な語句ではなく、その裏にそれを「礼賛・賛美」する価値が含まれているということです。

 これが「透明化」とセットになることでキモさが増すというわけです。

 どういうことかと言うと、前述のように「イクメン」には対語が存在しません。つまり「育児参画する男性」と同じか(間違いなく)それ以上に「育児参画する女性」がいるにも関わらず、その存在というのは透明化され続ける、言わば「いて当たり前の存在」として常態化し続けるわけです。

 というか日本社会において「育児参画する男性」の対語として「育児参画する女性」を用いるのは些か不適当な気がします。だって「男性が育児に参画するようになる」ずっと前から女性は常に育児や家事を当然の(無賃)労働として課せられていたし、「イクメン」が現れるはるか昔から「イクメンが礼賛される仕事」は女性たちにとって「当然の仕事」だったわけですから。

 ここまで聞くとキモさのオンパレード。キモさだけで年末商戦を乗り切れそうな勢いでキモい。

 今までは女性に「当然の仕事」としてそれを課し、あまつさえそれをずっと透明化してきたのに、いざ男性がその領域に踏み込んできたら「家庭的」「理想的な父親像」として社会から賛美され、事もあろうに芸能人がその賞にノミネートされたりする。「理想的な父親」とかで社会がオナニー始める前から女性たちは「理想の母親像」を押し付けられてきたんですが。っていう。

 この不均衡さに目を向けない限り、いつまでも「家事・育児を"手伝う"」とかいうズレた認識が変わらないんだろうなと思います。以前ツイッターでバズった、ドラマ『コウノドリ』のワンシーンで、子供が産まれた場面で父親になった男性がパートナーに対して「俺も"手伝う"から」と発し、医者役の綾野剛が「"手伝う"?あんたの子供だろうが」という場面が頭をよぎりました。

 「イクメン」という語句を、特に疑問を抱くことなく消費し続けるのはジェンダー的にものすごく不均衡だなと感じます。

 

2.性別役割分業転換期における「イクメン」の齎す好意的な役割

 こんだけボロクソに言っておいて、どのツラ下げて「好意的な役割」を述べるんだっていう感じがありますが、やはり物事を批判的に捉えるには賛否の両方をきちんと考慮する必要があると思うので。と言うのも、確かに「イクメン」はキモいですし、マクロ・ミクロの双方で捉えても手放しで褒められる概念ではないと思いますが、良い側面(のようなもの)もマクロな視点ではあると思うからです。

 

a)現在の社会が性別役割分業転換期である

 現代の日本社会は、その歩みは確かに遅いですが徐々に性別役割分業の呪いから解放されつつあります。一部では未だにこれを存置しようとする動きもありますが、社会全体の動きで見れば古き悪しき慣習であった、「男はソト、女はウチ」は解体されつつあるのではないでしょうか。

 これに関してあまり楽観的になりすぎるのは危険ですし、まだまだ課題は(マジで)多いですが、女性の社会進出が進んだり、男性の家庭参画が進んだりと、(特に若い世代の間では)性別によって何かを規定する、という呪縛から自由になっています。再度言いますがまだまだ課題は山積みです。カスみたいなニュースを多々見かけるし、「若い世代」と言うと一般化が過ぎるので。

 

b)「イクメン」が常態化する男性像は、徐々にその特異性を失っていく

 そういう「転換期」にあって、「イクメン」という語句は、言わば「社会を作り替える工具」としての側面を持ちます。つまり、「育児に参画する男性」を社会全体として賛美・美化することにより、後続の男性を生み出していく役割です。多分その中には、若干不純というか、「イクメンとして持て囃されたい・認められたい」という思いを抱いている男性もいるとは思います。個人的にはカスがよ〜とドロップキックをかましたい衝動に駆られますが、それをグッと堪えます。何でかというと、(個人の家庭内での関係性というミクロな視点はさておき)社会全体における性別役割の強度がこれによって弱まるのであれば、長期的には動機が不純だろうが良い気もするからです。あくまで家庭内での関係性がどうなるのかというミクロな点に目を瞑れば、ですよ?ちょっと育児や家事をやったくらいで「褒めて褒めて」みたいな顔をしてくる勘違い野郎は放っておきましょう。

 「全ての男性が(女性と同じように)育児に参画する社会」において「イクメン」という語句は何の意味も持たないし、特異性がなくなります。

 要するに、「イクメン」という語句によって生まれた、「男性を育児に向かわせようとする大きな潮流」そのものによって家庭内での家事・育児負担の男女比が解消されていくというメリットも、そこそこあるんじゃないかと。

 

3.おわりに

 まぁ何にしても「イクメンアワード(笑)」とかいうウンチコンテストはゲボをドブで煮込んだカスですが、それにしてもあらゆる側面から「イクメン」という語句・それが齎すものを毛嫌いすることもできないのかな、と。

 総合的に見ればカスな側面が強いですが、こうした新たな造語の不均衡な側面に目を向けつつ、メリットはメリットとして活かしていければ、なんだかんだ社会は前に進むのかなとも思います。小さな歪みを使って更に大きな歪みを正していく、ということです。

 

 引き続き質問箱とかでネタは募集してます。

 それでは。

ディベート小噺:後輩と組む時のあれやこれや

 ども、けろです。

 昨今のマスコミの掌返しの速度を利用した新たな発電技術が確立できそうな気がしています。まぁ今でも生ゴミ発電とかバイオマス発電ってあるから、そんなに大差ないかもですね。

 

 というわけで今回のブログは質問箱で「ネタください!なんでもしますから!」と募集したところ「ん?今なんでもするって……」という流れできた質問、「後輩と組んで大会出る時の心構えとか気をつけた方がいいようなことってありますか?」に答えます。

 まぁデカい顔して記事を書こうとしていますが、実は某有名なディベートブログの完全な二番煎じです。おじゃる丸うすいさちよみたいに使い切りのティーバッグを何回も使って無理矢理紅茶を飲む、みたいな手法ですね。通じなかった人は世代が違うのでちゃんとリサーチしてください。

 おまけに僕は某有名なディベートブログの方と比べると実績自体が小さかったりするので、「こいつデカい顔してるけどデカいのは顔だけじゃん」っていう反論がまじで刺さります。

 ちなみにここでいう「先輩」とは、一応の前提として「一定程度ディベートの経験年数等が一緒に組むパートナー(後輩)より高い人」を指します。ちゃんと定義しておかないとね、後から刺されちゃうので。

 

 あと僕のブログ読むのがだるいよって人は以下に某有名ディベートブログのリンクを貼っておくのでそっちを読んでください。

debatejiyucho.blogspot.com

 

以下目次です。

0.はじめに

1.イライラするな

2.後輩をちゃんと褒めよう

3.後輩にちゃんと喋らせよう

4.目標を明確にしよう

5.勝ったら後輩のおかげ、負けたら自分のせい

6.おわりに

 

0.はじめに

 まぁぶっちゃけてしまうと、理想の先輩像って突き詰めると「優しい人」だと思うんですが、これって結構漠然としているというか、恐らくディベート上でこのワードを使ったらジャッジから「クソデカ抽象概念やめろタコ」ってぶん殴られると思うので、何を以て「優しい」とするか考えてみます。これって多分「後輩の成長に関して真摯に向き合い、チームのことを考えて行動してくれる人」だと思うんですね。

 じゃあどういう行動・言動をする人がそういう人に該当するかなんですが、それがここから書いていく内容になります。はい伏線回収。脱冨樫。

 ちなみにこれから書く内容ですが、正直「どんな性格・人柄の後輩と組むか」によって大きく変わる内容だと思います。が、それなりに少なくない後輩像に当てはまるよう頑張って書きます。当てはまらなかったらごめんなさい。

 

1.イライラするな

 試合に負けると当然イラッとすることありますよね。え、ない?ごめんなさい死んで詫びます。

 でも多かれ少なかれ負けたらもやっとすることはあるし(一般化)、そうでなくてもプレパで「これ言ってきてね」って準備してた内容をチームメイトが出力しきれなかった時に(それ言ってきてほしかった……)って思う瞬間ってまぁそれなりにあると思うんですね。

 一番は「後輩に勝手な期待をするな。後輩像を理想化するな」で思考が切り替えられればベストなんですが、そうは言っても人間って感情がある生き物だし、頭では分かってても反射的な感情は避けられない側面というのもあると思います。

 そういう時でも、「イライラを表に出さない」を心掛けましょう。

 後輩(というよりパートナー)というのは、あなたが思っている以上にあなたのことを見ています。感情の機微や機嫌の乱高下等に敏感です。特にチーム内で権威勾配がある時に、そうした光景を見た後輩というのは往々にして萎縮します。萎縮するとパフォーマンスに影響するし、何よりディベートが楽しくなくなります。後輩がディベートを楽しめないチームってなんのために存在しているのか正直分からないので、先輩という立場で後輩と組むのであれば念頭においてください。

 要するに「自分の機嫌は自分で取れ」ということです。勝とうが負けようが後輩があなたの思った通りのパフォーマンスをしてくれなかろうがそれはあなたが後輩の前で不貞腐れていい理由にはなりません。ここまで書いていて過去の自分が窒息死しそうになっているんですが、これも自分の咎なので甘んじて受け入れます。どうでもいいですけど「咎」ってかっこいいですよね。罪って言うより厨二っぽくて好きです。

 

2.後輩をちゃんと褒めよう

 これもめちゃくちゃ大事です。というのも自分のパフォーマンスに自信がなかったりする人にとって、客観的に見てどれだけ良いパフォーマンスをしたとしても本人は自信なさげだったりするので、ちゃんと自信をつけさせてあげましょう。

 毎ラウンドスピーチが終わるごとにどこが良かったか、ちゃんと伝えてあげてください。どんなに些細なポイントでも良いです。サインポストが神だったとかキャラ分析最高だったとかケースビルドが上手かったとか。そういう「身近な人(≒他者)に自分のパフォーマンスを認めてもらえた」というポジティブな経験は、その後競技に臨むにあたっての大きな原動力になります。

 何より自信を持ってするスピーチとそうじゃないスピーチでは、仮に話す内容が全く同じでもスピーカースコアに若干影響します。要するにマナー面が大幅に向上するということです。

 もちろん先輩として、改善点やアドバイスしたいこともあると思います。それも言い方と言う順番は心掛けましょう。個人的には「褒める→改善点」の順番で、「〇〇がダメだった」等ではなく「より良いスピーチにするには〇〇もできるようになるといいね!」等の、"ネカティブな側面を指摘する"のではなく"ポジティブな方向に導く"というニュアンスで伝えるのが良いと思います。何を言うかではなくどう言うか、やはり大事ですね。

 

3.後輩にちゃんと喋らせよう

 これは主にプレパ時間の使い方の話になります。

 プレパというと、ついつい経験値の高い方というか、論題に対して解像度の高い出力ができる方が話してしまいがちです。特にディベーターというのはオタク特有の早口が好きな方ばかりで、自分の思いついたことをマシンガンのように話す人種ですので、一方が他方にマターダンプのように話しまくる、みたいな図式がよく起こります。

 チーム内での双方の理解度・出力の程度が同じであれば別にどちらが話しても良いとは思います。が、先輩-後輩という関係性であったり、チーム内で経験に勾配が発生しているような場合、「どちらが先に話すのか」というのも大事になってきます。

 というのも、論題に対する解像度が高くなかったり、理解度がそこまで詳細に追いついてなかったりする人が土砂降りのようなマターを浴びると、「なんかよく分からんしちゃんと理解できてないけど、とりあえず言われたことは話してこよう」みたいな状況に陥るからです。これ、スピーカーとしては割と致命的な状態なんです。

 自分で何が大事なのか、何を話すことでどの証明責任がどう変化するのか、相手のPOIにはどう応じればいいのか等の、ディベートに関わる上で頭の中に入っていないといけないことが途中で止まってしまうので、状況としては操り人形と一緒です。

 こういう宙ぶらりんな状態を避ける方法は、「プレパを開始するときはまず後輩から喋ってもらう」です。多分最初は難しいと思いますが、根気強くやっていきましょう。「何が言えそう?」「どんなキャラだと思う?」「インパクトはどこに落ちるかな?」等の助言的な質問を間に挟みながら、どんなにたどたどしくてもいいので「後輩が思いついたことを、後輩の口から出してもらう」ようにしてください。

 その上で、ケース完成において必要なイシューや要素があれば「先輩が肉付け」する。この順番が逆になると、「先輩が骨組みから肉付けまで行い、後輩は申し訳程度に付け足す」みたいな、レイアップシュートの左手的な立ち位置になってしまいます。

 後輩自身に「チーム・ディベートに参加している」という自己意識を持たせることは、直接的に「ディベートを楽しむ」ということに繋がってきます。

 

4.目標を明確にしよう

 どういうチームになりたいのか、どういうスピーカーになりたいのか、この大会での個人的な目標は何か等、チーム結成時にある程度の目標像を聞いておきましょう。

 目標があるかないかでコミュニケーションの取り方やモチベーションも変わってきます。

 例えば「マクロは強いけど具体的な話の分析が難しいから、ミクロな分析ができるようになりたい」といった目標が出れば、プレパ練でそこを重点的に補うことができるし、「ルーキープライズを狙いたい」というのであればスピーカーとしての完成度を上げるように緻密なアドバイスができます。逆に「結果よりも楽しいディベートがしたい!」という後輩であれば、とにかく明るく、ポジティブな雰囲気作りを心掛けたりとか。要するにキャッチボールをしましょうということです。相手の要望を聞かずにやるキャッチボールはキャッチボールではなくドッジボールです。顔面はセーフですが。

 目標を明確にしたほうが、先輩として変な期待やら過度な役割を押し付けることがなくなるし、何よりチーム内の意思疎通が取りやすくなります。闇雲に練習をするのは非効率的ですから。

 

5.勝ったら後輩のおかげ、負けたら自分のせい

 これは手垢がつきすぎて逆に新しさすらあるようなやつですね。先輩-後輩という関係性のチームでは往々にして、「先輩が出したマターが勝ちに繋がった」「先輩が後ろで支えてくれたから勝てた」みたいな状況が生まれたり、そういう雰囲気が作られやすかったりします。

 これが事実かどうかはさておいて、曲がりなりにも先輩としてチームをキャリーしているのであればそれを表に出すのはやめましょう。そして後輩に「あのケースをちゃんと出してくれたおかげだよ〜」等の労いの言葉をかけてあげてください。なぜならその後輩がチーム内で働いてくれたのは事実であって、チーム戦である以上それが何かしら大事な役割を果たしたことは事実ですから。

 特にジャッジのフィードバックが先輩のマターにばかり触れていたり、プレパであまり閃くことができなかったりすると、「自分がこのチームにいる意味はあるんだろうか」という鬱屈した思いになることがあります。ちゃんと後輩のケアができてこそ、一人前の先輩じゃね?と思ってます。自分がこれをできているとは言いません。特技はブーメランの投擲なので。

 逆に負けた時も、ちゃんと「いや〜ごめん、私がちゃんとしてないからさぁ」とフォローしてあげてください。多分優しい後輩とかは「いやいやそんなことないです、私が云々」と再フォローしてくることがあると思うんですが、そこは大人の対応を見せましょう。

 兎にも角にも、勝ったら後輩のおかげ、負けたら自分のせいです。驕らず高ぶらず、謙虚にいきましょう。

 

6.おわりに

 ここまで「後輩と組む時に気をつけた方がいいこと」を紹介してきましたが、いかがでしたか?(カス内容アフィリエイトブログ)

 こんな感じで色々書きましたが、結局は組む後輩の人柄や個性、コミュニケーションの取り方等々に依存してくるので、ここに書いたことがそのまま即実践できるかというと少し違う気もします(予防線)。

 ただ、慣れ親しんだ同期や仲の良い先輩とかと違って、意外と心理的な距離のある後輩と組むときに今までと同じように接すると上手くいかなかったりします。良い先輩を「気取る」必要は全くありませんが、「目指す」ことは大事ですし、後輩の顔色を伺うことはせずとも気持ちを汲み取るようにしましょう。

 

 これからAsianシーズンが始まり、それが明けると新歓シーズンですね。

 新型コロナウイルスの関係から来春の大会がどうなるかはまだ分かりませんが、後輩と組んで大会に出る機会がある人は、ほんのちょびっとでも参考にしてくれたら嬉しいです。

 

 

 それでは。

ディベート小噺:オンラインは「公平」な環境を齎すか

 ども、けろです。

 一週間近く休みを取って居座る実家、平和すぎてまじでやることがないです。

 これはめちゃくちゃ良い意味で、夜は23時前にはやることがなくなるので寝るし、朝は目覚ましを使わずとも8〜9時くらいに起きるのでめちゃくちゃ健康的。仕事のストレスから完全に解放されているので伸び伸びとした休暇を満喫しています。

 果たして休暇明けにまともに仕事ができるのかさっぱり分かりませんが、明日は明日の風が吹きます。使い方があってるかは知りません。

 

 コロナ禍の影響もあって身の回りの色々なものがオンライン化していき、色々な意味で生活環境が変わっていますね。みんなの順応能力すごいなぁと思いながらも、オンラインであれこれできた去年がはるか昔のように思えるのが悲しいところですね。

 そんなわけで、withコロナ的な時代の中でふと思った疑問というかもやっとした吹き溜まりを記事にします。例によって建設的なものではないので日常の合間に適当に消費してください。ブログなんてそんなものなので。

 

 というわけで目次です。カスみたいなサインポストになりました。

0.はじめに

1.オンラインディベートの利点

2.オンラインディベートの欠点

3.それ踏まえての将来的な折衷案

 

0.はじめに

 そういえばパーラ大会がオンライン化してからまだ1年経ってないんですよね。今年の春先の大会はオフラインで計画していたために急遽会場となる大学が貸し出しを取りやめたために中止になってしまったので、実はオンライン大会って本当に最近のことなんですよね。

 そんな中で既に様々な知識やノウハウが蓄積されているのはまじですごいと思うし、コミとなる方々の対応力と順応力には舌を巻きます。

 プラットフォームも(良い意味で)多様化していて、当初はmixideaだけでしたが次第にzoomが加わったりDiscordが仲間入りしたりと、需要に合わせて色々な試行錯誤が行われているのは良いことですね。FBの自動翻訳がDiscordのことを「不協和音」って変換したのはめちゃくちゃ笑いましたが。

 

1.オンラインディベートの利点

 いきなり「オンラインディベートはダメ」とか言い始めても完全に厄介な老害と化すし議論としてもフェアではないので、比較材料としての利点をきちんと列挙しようと思います。というか総合的に見ればオンライン上でのディベートはデメリットよりもメリットの方が若干上回るんじゃね?と思ってます。

 

a)地理的ハンデの克服

  これが一番でかい気がします。というのもオフラインディベートがどこかしらの大学を会場とする以上、地理的なハンデは避けては通れない問題になるからです。

 大会数だけでいえば関東開催の大会が一番多いですし、メジャー大会の多くは関東で開催されます。もちろん名古屋や関西、九州での開催もありますし、それらの大会はコンセプトも様々で非常に楽しいのですが、どの大会も突き詰めれば「地理的な移動」が発生するため、これを克服しなければ大会に参加できないわけです。常に遠距離恋愛みたいなもんです(は?)

 例えば実家暮らしで親が厳しめだったりすると、頻繁な遠征はできなかったりするし、ひとり暮らしでもバンバン遠征するのは厳しかったりします(2点目と若干被りますが)。

 あとは練習機会に関してもそうですね。他大学の練習に参加したくても遠かったりするとそれだけでハンデになりますし。近くにパーラやってる大学が複数あれば良いけど、そうじゃないと孤立してしまいますから。

 その点オンラインディベートは、練習でも大会でもデバイスとネット環境があればどこにいても参加できるので非常にアクセスが高いです。東京にいながら関西や名古屋の大会に参加したり、九州にいながら関西の練習にお邪魔したりが可能になったのは、オンライン化の光と言えるでしょう。

 

b)経済的・身体的負担の軽減

 また、それに伴って経済的・身体的な負担が劇的に減った、というのもかなりのメリットだと思います。

 というのも、まじで遠征ってお金がかかるんですよ。関東→関西だと夜行バスで5〜7000円くらい、新幹線だと1万円強、飛行機だとLCC使って新幹線と同じくらい、みたいな。それに加えてホテルやネカフェ、ホステル等の宿泊施設が一泊3000円〜。

 特に地方勢(という言い方は関東中央主義的で好きではないですが)は関東での大会の度に遠征が必要で、東北や九州からの遠征ともなれば一苦労。そんなのお財布と体力の持久走です。一緒にゴールしような!

 この出費だけでかなりの額になるし、夜行バスで当日入りともなれば予選ラウンドは慢性的な寝不足との戦いです。これ普通にしんどい。

 それがなんということでしょう。オンライン化によって朝9時に起きてPCを立ち上げればレジが完了し、遠征に消えるはずだった数千円でなんやかんや良いものが買えるではありませんか(大改造劇的ビフォーアフター)。

 特に顕著なのは海外大会じゃないでしょうか。日本に居ながらにしてメジャーな国際大会に参加できるのはすごいことです。渡航費や宿泊費がまるまる節約できるわけですから。まぁ逆に時差の問題が新たに発生してくるわけですが。

 ディベーターの全員が全員めちゃくちゃ熱心にバイトできるわけでも、親からお小遣いや仕送りがもらえる経済資本を持っているわけでもありません。そりゃ大会によっては遠方援助があったりしますが、言ってしまえば雀の涙みたいな額で、一泊の宿泊費の足しになれば良いかな、くらい。まして兼部や兼サーしてたら「そこまでしなくてもいいかな…」って思う人はいるだろうし。

 

 というわけでディベート大会・練習のオンライン化は、地理的・経済的・身体的負担の大幅な軽減に寄与しているという利点があります。

 

2.オンラインディベートの欠点

 それを踏まえての本題というか、個人的な価値観の投げかけです。

 今のままオンラインを続けても良いと思う反面、実はオンラインディベートによって発生する新たな「不公平さ」というのは実のところ透明化されているのではないか、と思ったので。格差の是正、とスピーチ中に訴える諸兄だからこそ、この問題はちゃんと見つめてほしいわけです。

 

a)環境整備にはお金がかかるよ

 オンラインディベートは確かに便利です。PC一台あればどこからでも参加できるし、遠征費用等は発生しません。一見するととても「公平」に見えます。

 ですが、その一方で新たに発生する、経済的な格差問題というのもまた事実だと思います。

 というのもこの「オンライン環境」というものは、参入にあたって必ずオンラインに対応したデバイスが必要になるんです。PCだったりスマホだったりインターネット回線だったり、人によってはマイクとかもありますが。

 たまに耳にする「PCが不調な時は予備のデバイスを使いましょう」みたいな論調、僕はめちゃくちゃ怖いと思います。なんでみんながみんな予備のデバイスを持っている前提で話が進むんでしょうか。PCの他にタブレットを持っていたり、ポケットWiFiのバックアップに別回線があったり。

 それが「当たり前」として通用するのって、実はめちゃくちゃ恵まれている環境だと思うし、恵まれてる人達だなと思うんですよ。僕が学生の頃、自分の家にPCがなくて大学の貸し出しPCでレポートを書いている友人はたくさんいたし、スマホでポチポチとレポートを書いている人もいました。

 ネット環境だって、回線速度は契約しているプランに応じて変わるし、それによって音質やら通信の安定度やらも変わってきます。これって全部その人が持っている資本によって決まるんですよ。文化資本、経済資本、親ガチャ。しかもリセマラできないですしね。

 学校教育をタブレットで行う、というニュースが出た時に、それに対応できない人達はどうするのか、という議論を目にしました。まじでそれと同じだと思います。PC一台、タブレット一台、ネット回線契約等々、初期投資だけでも結構な額が必要になりますよね。

 設備投資をできる人だけが参加でき、環境改善を積極的に行える人が環境的なアドバンテージを獲得できるの、個人的には「公平」とは少し離れてしまうのでは、と(あとは単純にネット環境に強い/明るい人じゃないとハードル高いですよね。デジタルネイティブ世代はそこら辺のハードル低いかもしれませんが、苦手意識ある人は一定数いるので)。

 確かにオンラインディベートは色々なメリットを齎しますが、その裏で発生する見えない「格差」というものに、少しだけ思いを馳せましょう。まぁ馳せたからとオンラインしかディベートする環境がない現状では何ができるわけでもないんですが。

 

b)非言語面が伝わりづらいよ

 これはzoom等でカメラ機能をオンにすればある程度解消できるとは思いますが、それでも対面で感じる「スピーチのノンバーバルな側面」というのはかなり大きいです。ジェスチャーだったりボディランゲージだったり、目線だったりといったノンバーバルな部分というのもスピーチの重要な位置を占めています。

 オンラインの良くないところは、ほぼ音声だけで判断しなければいけないところです。これはこれでバイアスを回避できるっていうメリットはあるんですが、ジャッジの目を見てスピーチできない、っていうのは大きいと思うんですね。ジャッジの表情を見ながら、どこまで伝わっていてどこからは言い直した方がいいとか、自分のスピーチをちゃんと取ってくれているなとか、そういうのを確認したい瞬間ってあると思うんです。

 自分のスピーチや言語面に自信がある人はいいんですが、僕のように表現がたどたどしくなったり、非言語面も含めてジャッジにニュアンスを伝えるのが得意な人からしたらこの「音声だけ(カメラオンにしても割と一方通行)」というのは結構な弊害だったりします。

 

c)みんなに会いたいよ

 こっから先は建設的な要素皆無です。タメになる議論が読みたい人はここら辺でブラウザを閉じてください。もう一度言います、ここから先は超個人的な愚痴です。

 ゆーて色んな人に会いたくないですか、オフラインで。僕は会いたいです。オフライン特有の、ORで顔を見合わせる楽しさだったり、ラウンド終わりに部屋の外でする談笑だったりコミュニケーションだったり、予選終わりにみんなで行く居酒屋だったり。

 言ってしまえばディベートの「競技性」とは関係ない側面だけど、これらの副次的な側面も込みでみんな「ディベート」を楽しんでいたと思うんです。

 以前「ディベートにかこつけて酒飲みたいだけじゃん」みたいな、斜に構えてる俺カッケー風の意見見かけたことあるんですが、それの何が悪いんですか?ってゆー。人は一人になりたがるが独りでは生きていけない、みたいな感じで、ディベートは好きだがディベートだけでは大会は楽しめないんですよ。

 まぁこの辺に関しては割と同意してくれる人が多いので嬉しいですね。

 

d)遠征したいよ

 遠征って確かにお金がかかるし体力的にもしんどいけど、それそのものがちっちゃな修学旅行感というか、プチ旅行感あって最高なんですよ。名古屋は手羽先とか味噌煮込みうどん食べながら飲むビールがうまいし、関西はお好み焼きやたこ焼き食べながら飲むビールがうまいし、博多はもつ鍋と鶏皮と明太子食べながら飲むビールがうまいんですよ。それを遠征仲間を分かち合うという、「時間と空間を共有している感覚」っていうのが遠征の醍醐味だと思うので、結構恋しいですね。

 これも前述のように「お前ディベートしたいの?それとも旅行したいの?」って聞かれると思うんですが、僕は「ディベート旅行がしたい」んですよ。伝われ、この思い。

 

3.それ踏まえての将来的な折衷案

 じゃあどうしたらいいの?っていう問題提起に対する解決策の提示なんですが、これに関しては今後の社会の潮流を踏まえて考えたいと思います。

 というのも昨今では新型コロナウイルスに対するワクチン接種が各国で始まり、日本も近いうちに市場に出回ると思います。まぁこのワクチン接種=安全っていうのはかなり危ない図式なのは間違いないですが、今の「感染者が〇〇人!危険!」みたいな(ちょっといき過ぎた)状態からは幾分沈静化すると思います。となると来年の夏〜冬頃には徐々に社会的な緊張も緩和され、オンライン一辺倒だったあれやこれやもオフラインに戻ってくると思うんですね。

 ディベート大会も例に漏れず(まぁ大学の施設貸し出し状況に依存はしますが)オフライン大会が徐々に行えるようになってくるとは思います。

 ここで前述に遡りたいんですが、オフライン大会もオンライン大会も、どちらにもメリットデメリットがあり、これの解消手段は現状あまりないです。

 となった時にコミュニティとして採るべきなのは、「いくつかの大会はオンラインのまま残す」という選択肢なのでは、と。例えばメジャー大会の1つは従来のオンラインの形態を採る、とか。

 これをするためには年度の早い段階で各地域ごとに年間スケジュールを調整する必要があるので割と密な連携が必要になってくると思います。結構大変そう。

 それこそ旧来の大会を統廃合して「○○ Online Open」みたいな名前にして最強決定戦をしたら盛り上がると思うし。まぁ僕がこうして好き放題言えるのは単に一線を退いたOBというポジションだからなわけですが。

 

 でも近い将来、この問題は必ず直面すると思うんです。

 今オンラインディベートが定着したからこそ、どの程度までオフラインに戻すのか、戻さないならそれはどの大会までにするのか、早め早めにコミュニティ全体で議論した方がより良い大会設計ができると思います。

 (個人的には大学の練習環境もオンラインとオフラインの双方を両立できたらより包括的になる気はしますね。執行代の負担は増えてしまいますが……)

 

 

 と、建設的な締めくくりっぽい何かができたのでここら辺で終わりたいと思います。

 それでは。