ディベート小噺:「コミ」に関して〜第一弾〜

 ども、けろです。

 皆さんが既に存在を忘れた頃に帰ってくる、そんなブログを目指すつもりは毛頭ありませんでした。更新頻度がHUNTER×HUNTERレベルになってきているので、そろそろディベート界の冨樫義博を目指そうと思います。まずはかっちょいい漫画を描くところから始めようかなと。

 

 以前何度かTwitterで「ブログ書きますブログ書きます」と宣って幾星霜、完全にただの詐欺師になりつつあるのでまじで重い腰を上げます。

 

 さて、今回から何回かに渡ってシリーズ連載的なブログ記事を書こうと思います。

 テーマは「コミに関して」です。

 ここでいうコミとは、各種ディベート大会を運営する集団のことを指します。コミッティー、正規コミ等様々な名称がありますが、「コミ」という呼称は皆さんも一度は聞いたことがあると思います。そんな、コミに関するお話をいくつか書こうかなと。

 

 以下、シリーズ記事予定

 第一回:近年のコミ人材不足を受けて(今回)

 第二回:コミュニティに伝えたいこと

 第三回:コミの心得~コミをやるにあたって必要なこと~

 第四回:各種コミ資料紹介

 

 ぼんやりと書く内容は決めていたものの、それぞれの名前は今考えたので、書いてく途中で微修正するかもしれません。しないかもしれませんが。

 

 

 では今回のお話、「近年のコミ人材不足を受けて」の目次です。

 0.はじめに

 1.「コミ不足」とはなにか

 2.「コミ」と「ディベーター」の乖離

 3.コミをやると見えてくるもの

 

 記事内で別途説明が必要と思われる語句等は、記事終わりにまとめて紹介しています。番号を振っていますので、気になる箇所はそちらを!

 

0.はじめに

 シリーズ記事のイントロとして何を書こうか迷いましたが、まずは自分の来歴を本当に軽く。

 今はしがない社会人としていそいそと働く傍ら、たまに大会に顔を出す辺な服着たお兄さんと化していますが、現役生の頃は少しだけコミとして大会運営に関わることもありました。

 一番熱心にコミをやっていたのが2015~2016年、「最後」(*1)のコミをやったのが2017年なので、既に化石みたいな人ですね。それ以外にはヘルパー(*2)を数回やらせていただきました。

 

 これからの記事は、そんな「コミを何度か経験した(関東コミュニティ出身の)私」の意見です。

 先に断っておきますが、このブログは如何なる団体や組織の意見を代表するものでも、誰かのメッセンジャーとしての発信でもありません。私が感じたことを、私の言葉で綴る、私のブログです。

 記事の性質上、刺のある言葉やセンシティブな事柄にも触れると思います。

 ので、「なにこいつ生意気なこと言ってんの」等のご意見は、全て私個人にお願いします。他の人は一切関係ないので。

 

 そうした意味で、このブログ記事は「大学英語パーラコミュニティ」に所属する全ての人に向けたメッセージであるとともに、かつて無自覚だった自分への糾弾でもあります。どうぞ、酒の肴として読んでください。

 記事中、読者の方を指して「皆さん」という言葉を多用しますが、ここには「かつての私」も含まれます。私の言葉の癖のようなものなので、「コミュニティのみんな」とでも脳内変換してください。

 

 

1.「コミ不足」とはなにか

 近年、コミ不足、という言葉をよく聞きます。近年というより、自分が現役の時からかもしれませんし、実はもっと昔からかもしれません。少なくとも自分が大会運営に関わり始めた2015年には既にこの言葉があったように思いますし、自分が声をかけていただく際には何度かこの言葉が付いてきたことを覚えています。

 

 さて、「コミをやる人がいない」という状況を漠然と指すこの言葉は、実態として何を表しているか。その言葉が意味するのは一体どんな背景で、そこには何があるのか。

 

 

 

 ディベーターっぽく結論から言えば、「コミをやる人」はいます。

 「え?」と思った方、直近の大会で「コミがいないので大会は中止です」という類のFBポストを見たことはありますか。「コミをやる人がいないからこの大会は1日大会にします」というメーリスを読んだことはありますか。

 分かりきっていますが、例年大会は(台風や大雪、伝染病等の非常事態を除けば)遅滞なく開催されることがほとんどですし、皆さんも「今年は参加できなかったから来年は参加しよう」と当たり前の様に口にすると思います。

 

 大会が開催されている以上、「コミをやる人がいない」というのは実は少しだけニュアンスを捉え切れていないのでは?というのが主観です。

 では、「コミ不足」という言葉の裏にあるのはなんなのかというと、それはシンプルに、「コミをやる人材の母数の不足」ならびに「人材数不足による、特定の人への仕事の過度な集中」です。

 これも当たり前といえば当たり前かもしれませんね。

 

 たとえばいつもタブで見かける人、いつもコミとして何かしらの役職に関わっている人、そうした人を度々目にします。自分が現役の時もそうでしたし、今もそうかと思います。自分が現役の時も、よく「コミの人」として認識されていました。

 

 その言葉の是非は置いておくとして、「特定の人に仕事が集中すること」は、過去、現在と、このコミュニティが抱える問題なのではないでしょうか。

 

 ここに、私は大きく3つの問題があると思っています。

 1つは搾取的環境の醸成。

 特定の人に仕事が集中し始めると、その環境が常態化します。「あの人はいつもコミをやってくれるから、今回もお願いすればやってくれるだろう」と、当人のキャパシティを逼迫する仕事が舞い込んだり、特定の人が同時に多くのタスクを抱えることになりかねません。

 ここで問題なのは、そうした人の多くが「頼まれたら断りにくい人」であるということです。困っている人を放っておけない人、誰かの力になりたい人、そうした人たちにとって、こうした環境は致命的になることがあります。

 私自身、コミをやった時に「○○の仕事はベテランのあの人に頼もう」と思ったことが多々あります。新しい人材を発掘・教育する長期的なコストよりも、熟練の人に仕事を振る短期的なメリットを優先した結果であり、この辺が実に日系企業みたいだなぁと過去の自分を振り返って辟易するんですが、これは自分に限った話ではないと思います。

 

 2つは当事者意識の欠如。

 コミをやっている人たちと、競技をする人たちが同じ世界にいるのだという認識が薄くなればなるほど、「大会に出る」という選択の中で「コミをやる」という選択の重さが薄れていくし、同時にコミの人たちが抱えている苦労や悩みのようなものを「当事者」として共有することが難しくなります。

 「コミの人たちは大変だよね」というその言葉が、対岸から発せられるのではなく、自分たちのこととして捉えていかないといけないと感じます。

 

 3つ目は、コミュニティとしての持続性の喪失。

 近年、個性的な1日大会や多様なコンセプトの大会が非常に増えました。地方の大会、部内大会、全国大会、ジャンル固定の大会と、コンセプトや趣旨の異なる大会が多く立ち上がり、参加者としても、コミュニティに属する人間としても非常に嬉しい限りです。

 ですがその一方でコミをやる人・やりたいと思う人の絶対数が世代を超えて増えていかなければ、いずれはジリ貧になっていくとも思います。

 

 もちろん、新人のコミ育成を目指した取り組みや制度も近年では増えてきていますし、資料等も拡充しているため、これらの問題は徐々にではありますが解決に向かっているのでしょう。

 しかしそれでも、こうして言語化し、発信することで、改めて私たちが帰属するコミュニティの実状を知り、意識の変革の助力になれれば幸いです。

 

 

 

 

2.「コミ」と「ディベーター」の乖離

 

 では、前項で話した「特定の人への仕事の集中」や「(コミュニティとしての)当事者意識の欠如」が引き起こしている問題は、それだけなのでしょうか。

 

 私は、それに伴って発生する「コミ」と「ディベーター」の層の乖離に、どこか恐ろしさを感じずにはいられません。

 

 実際に、コミをやる、という決断は簡単なものではありません。

 ある大会でコミをやるということは、その人がその大会にディベーターやジャッジとして出る機会、もっといえばその大会で実績を残すチャンスの内の一つを諦める、ということです。

 

 私自身、望んでコミをやったことがほとんど(というか全て)ですし、今コミをやられている方の中にもコミという職の奥深さ、大会運営という重責を乗り越える楽しさを感じ、コミをやることにやりがいを感じている方もいると思います。実際、そんな思いから運営される大会のホスピタリティの高さや完成度の高さ(*4)に、かつて運営に携わっていた自分は舌を巻くばかりです。私はそんな方々全てを誇りに思いますし、そうしたキラキラとした姿やFacebookポストを見る度に、自分が現役生だった頃を思い出して勝手に感傷に浸る懐古厨OBと化しています。このままいくと「俺の若い頃はな」を連呼する化石になる気がしますね。死にたい。

 

 私が言いたいのは、(私を含む)皆さん一人一人がディベーター/ジャッジとして競技を思う存分楽しめているのは、その機会と大会運営を天秤にかけ、後者を選んだ人の献身があるからこそだということです。

 皆さんは、これらを天秤にかけたことがありますか。

 同期や先輩、後輩とチームを組んで大会に出る時に、その大会で運営をしている自分というまったく別の可能性を考えたことはありますか。

 

 どちらが善とか悪とか、良いとか価値があるとかではなくて、自分の中に、当たり前の選択肢として、「ディベーター・ジャッジ・コミ」が並立していますか。

 

 

 昔を美化するつもりは毛頭ありませんが、あくまで肌感覚として、昔は実績のあるディベーターの方もコミをやられていた気がします(今がゼロというわけじゃないです、もちろん)。ある大会でFDをやられていた方が、次の大会ではDCAをやっている、みたいなことも比較的(?)よく見た光景でした(*5)。

 それが少しずつ、これも肌感覚程度なので具体的に指標化するのは難しいのですが、変容してきている気がします。

 

 冒頭で触れた「特定の人への仕事の過度な集中」というのも相まって、「コミをやる人」と「競技に打ち込む人」が少しずつ、少しずつ二極化しているような、そんな気がします。

 

 もし、「コミをやる人」の中に、「頼まれたら断りづらく」、「でも後輩や先輩と大会に出たいとどこかで思っている」人がいたとして、私たちはその人達から直接的・間接的に「大会に出る機会」を奪っているのかもしれません。

 

 こうして書くと、あたかもコミをやられている方全てが被害者のような印象を与えてしまうかもしれませんが、そういうことを言いたいわけではありません。

 

 「コミが大会を運営する」

 

 それは当たり前のことではないし、機械ではなく生身の人間が携わっているのだということ。そして、それが一部の人に集中しているのだということ。それだけが私の言いたいことです。

 もちろん、コミュニティへの関わり方は様々です。色んな関わり方でコミュニティに所属して、帰属意識を見出し、自分の居場所を見つけることは、どのコミュニティにおいても大事なことですし、それはディベートコミュニティにおいても同様だと思います。

 競技のバチバチとした空気感は苦手だけど面白い映像を作るのが好き、輝いている人達を支える仕事にやりがいを感じる、そうした想いは、決してネガティブに受け取られるべきではないことも分かっています。

 それでも、「多様」という言葉を使って自身はその側面に目を向けず、限られた人の身を粉にしてもなお何もしないでいることの静かな暴力性が、私はとても怖いです。

 

 

 ここ最近は、コミを経験された方が自身で意見を発信する機会が増えてきました。同時に、「大会」という、社会問題を論じる舞台で大会運営を主眼に据えた論題が出るようになってきました。

 少しずつ、今までブラックボックスというか、語られる機会の少なかった側面に光が当たるようになってきて本当に嬉しく思っています。

 

 同時にこのブログ記事が、多くの方に読まれ、そして僅かでもコミュニティをより良くしてくれたなら、書き手としてこれ以上の幸福はありません。

 

 

 第一回目の更新からヘビーな内容な気がするし、自分で読み返してて随分尖った言葉を使うなぁと思いました。

「いや、いまのコミュニティはそんなんちゃうぞ老害」等のご批判等があれば申し訳ない限りですが、その批判が出るということはコミュニティが前進しているということなので、私は嬉しく思います。

 

 

 それでは、第二回の更新で!

 

 

 

*1:2017年のJapan BPで通算10回目の正規コミをやることを決め、最後にTDとして大会運営に関わりました。Facebookにその時のことは書いているのでここでは省きますが、自分が「正規コミ」として関わった最後の大会です。この大会で私は正規コミ引退を公言し、以降はヘルパーとしてのみの関わり方をさせてもらってます。

 

*2:当日コミ、(昔の言い方では)ランナー・計算隊等の別称があります。主な仕事は大会予選の運営補助。会場設営やラウンド終了後の退室催促、出場者欠員時のシャドー(*3)等、正規コミだけでは回らない仕事を補佐する役割があります。

 

*3:スイングとも呼ばれますが、出場チーム数が奇数だった場合(BPだと4で割り切れないチーム数の場合)に補填要員としてラウンドに参戦する戦士です。ラウンドが回るのは彼らのおかげ!

 

*4:色々な大会がありますが、ブレイクアナウンスメントのyoutubeプレミアム配信とか、大学宿泊施設を借用しての格安宿の提供とか、本当に本当に素晴らしいと思います。

 

*5:ここら辺の相関、ちゃんと洗い出したら面白そうだなって思いました。思っただけですすみません。