ゼロから始めたディベート史 Ep.5『ひとつの転換点』

 どうも、前回のブログ更新は6月だったみたいです。4ヶ月周期で更新されるブログってもはやブログではない気がするし、恐らくほとんどの人に存在を忘れられてると戦々恐々です。

 かつ、自分で書いていて「あれ、前回どこまで書いたっけ」となっているので、もはや自分でも時間の経過が怖くしてしゃーないですね。いやそれなら早く書けよって話なんですけど。

 

 というわけでEp.5です。ちなみに構想ではEp.9までの予定なので、やっと折り返しという感があります。社会人になった今もディベートは続けていますが、このテーマで細々と書き綴るのはあくまで学生ディベート時代のことに限定していますので、どうぞそんな感じで読んでください。

 

Ep.5『ひとつの転換点』:学部4年冬〜

0.はじめに

1.冬での辛酸

2.春先の気付き

 

0.はじめに

 最近学年大会にジャッジでお邪魔する機会が数度あったり、いくつかの大学のエジュケに遠くから携わっていて思うのですが、まじで現役世代とのジェネレーションギャップを感じます。

 や、ディベートのスキルとかそういう狭義のギャップではなく、彼らが育ってきた時代背景が、自分らのそれとは大きく違うのがすげぇな、と。

 自分は初めてプレイしたポケモンソフトが銀〜ルビーサファイア世代で、バリバリのゲームボーイアドバンス・SP世代なのですが、今の1年生達って初プレイがダイヤモンド・パールだったりするんですよ。

 おまけにフロッピーディスクを知らなかったりブラウン管を経験していなかったりと、デジタルネイティブ世代とはこういうことをいうのか……と僅かばかりの文化的な隔たりのようなものを感じました。

 それでも、こんなお兄さん(断じておじさんではないし、25歳はアラサーではなく20代半ばです)でも親しくしてくれるのはこのコミュニティの暖かさなのかな、とも思ったり。

 社会人/OBとしてあまり最前線でどうこうするのは違うなとも思うので、程よい距離感で関わっていきたいと思います。ので、どこかでデカい顔してたら「顔デケェよおじさん」と罵ってください。

 

1.冬での辛酸

 前回、春先から秋口にかけては比較的ジャッジとして大会に出ることが多かった自分ですが、冬は一転、ディベーターとして出場することが多かったです。

 

 この冬に出場したのはJapan BPとRyoso Cupの二つ(だったはず)。

 結論から先に書くと、その2つとも敢えなくブレイク落ちという辛酸を舐めることになりました。2大会連続ということもあってそこそこしんどかったです。

 

 Japan BP(以下JBP)には自大学で自分と長年のパートナーの後ろについてきてくれた1個下の後輩と組んで出場しました(*1)。1個下とはいっても歳は同い年だし、お互い気兼ねなく接する間柄だったので向こうもタメ口だし、こっちも同期と同じ感覚で接してました。

 R1でOG 3位、R2でCG 2位、R3はOOで1位と、6点でバブルに入りました(*2)。 

 バブルではCO、論題は確か少子化社会に関するものだったはずです。自分の前に上手いチームがいて、そこを抜けず、かつCGに効果的な反論ができずに3位止まりでした。

 本来なら3位、つまりトータル7点でもスピーカースコア次第ではブレイクできたんですが、自分たちはそれに届かず、ブレイク落ちでした。

 この大会ではブレイクアナウンスメントが大会2日目朝だったということもあり、消沈しながらも気持ちを切り替えてブレイクラウンドを観戦していました。

 ブレイクを狙えるチーム、自大学で組めるベストチームだっただけに、この結果は本当に悔しかったですね。

 

 続くRyoso Cup、通称神戸牛争奪戦。

 元々のパートナーに急用ができてしまい、急遽いろんな人にあたって青学の同期と出場することになりました。普通に気が合う同期だったのでめちゃくちゃ楽しかったです。

 ラウンドの所感とかサイド云々はここでは省略しますが、結果はスピーカースコアが1点届かずリザーブド1位。

 リザーブドブレイクって、めちゃくちゃ複雑な心境なんですよね。これは多分直接経験したことのある人しかわからないと思うんですけど、「ブレイク!」と万歳して喜べるわけでもなければ「ブレイク落ちかぁ」と凹むには少し違う気もするし、「どこかのチームが体調不良になりますように」などと願うのはどう考えても不謹慎です。

 だからなんていうか、どっちつかずというか、宙ぶらりんというか、そんな感じだと思うんです、リザーブドって。

 というのもあって悔しかったです。何せこの大会は2年前にも歴戦のパートナーと挑み、同じく17位でブレイクを逃した大会だったからです。2回連続17位で、後少しのところでブレイクを逃してしまったということが、ジクジクと膿んだ痛みを齎していました。「2年前から成長してねぇなぁ」という停滞感が、当時の自分を包んでいたように思います。

 

 とまぁ、何ともいえない悲しさと悔しさを抱いたまま、学部4年の冬は明けていきました。

 

2.春先の気付き

 院試の勉強に追われながら、それでもディベートは細々と続けていました(*3)。

 院試が2月でやっと終わり、3月はディベートするぞ!と思っていました。

 「最近自大学とばかり組んでたし、久しぶりにジョイントするか」と思った自分は、仲の良かった東大の後輩に声をかけ、二つ返事でザ関西で出ることになりました。思えばこの大会と、前述の神戸牛争奪戦が、自分のイキリチーム名の歴史が幕を明けたんだと思います。

 神戸牛争奪戦ではSex Pistols、ザ関西では白騎士を意味するドイツ語のweißritterをチーム名に付けました。チーム名でイキるの、パンフレットで(悪)目立ちするしテンションも上がるのでめちゃくちゃいいです。皆さんもぜひ。

 

 このザ関西、とにかく濃かったです。チームメイトとのプレパはまじで死ぬほど楽しくて、レトリックでイキったりプレパ中に爆笑したり、それでも相手のケースにはガッツリ噛み付いて戦ったり。

 予選で善戦し、ICUの後輩達と大阪のめちゃくちゃ美味いたこ焼きで優勝してから行く銭湯は神の愉悦でした。

 このチームは無事3勝し、ブレイクラウンド初戦を突破しました。

 Quarter Finalで東大のチームとあたって敢えなく負けてしまい、結果はまたしてもQuarter Finalistになりました。この時点でブレイク経験が3回、全てQuarter Final止まりだったので、順調にQF芸人の道を歩み始めていますね。

  QFで負けてしまったのは悔しかったけど、それでも大好きなチームメイトとの関西遠征、またそれに向けての練習の日々はめちゃくちゃ楽しかったので満足度が高かったです。

 

 そして何より、この頃からやっと、自分のスピーチの型らしきものが定まり始め、同時に自分のスピーチに自信が持てるようになりました。それは、単にスコアとして反映されるものだけではなく、大会に対する自分の姿勢がやっと落ち着き始めた、ということだと思います。

 自分らしいスピーチを自分の言葉で紡ぐという、即興ディベートの醍醐味に、『イキリ』を通して気づくことができたというのは、学部4年というかなり遅い時期ではありますがかなり大きな進歩だったのかなと、今更ながら思います。そういう意味で、この時期は自分にとってひとつの転換点だったのかなと思います。勝つためのスピーチと並行して、自分が一番楽しめるスピーチを追求していく楽しさは、きっと即興ディベートでしか味わえない幸福だと思うので。

 

 

 さて、ここで「ゼロから始めたディベート史:学部篇」は終了です(*4)。思えば、長いようであっという間だった気がします。まぁスタート地点が学部2年の夏過ぎだったので周りと比べると短いんですが、それでもやっぱりあっという間でした。

 次回からは院生篇が始まります。更新がいつになるかは自分にも分かりませんが、気長に待ってもらえると幸いです。

 

 それでは。

 

*1:この後輩と初めて組んだのは学部3年のゴールデンカップだったはずです。その時は帰りの夜行バスを逃して中々ロックでしたし、その後にこの3人でザ関西、春Tと出場したのは今でも忘られません。このブログでは省いていますが、そのどれも大切な思い出です。この2つのAsian大会は残念ながらブレイク落ちでしたが、それでもプレパのしやすさと信頼度と心の落ち着きは比肩する人がいないほどでした。あぁ、懐かしい。

 

*2:実はR3では、ラウンドが始まる5分前に逆サイドでプレパしてることに気付きました。パートナーとケースを合わせようとしたら「え、けろ、それgovの話じゃない?」って言われて血の気が引きました。その後の5分間でパートナーからケースをもらって、ボロボロながらLOスピーチできました。まじで負けたと思ったし、チームメイトにはまじで何度も謝りました。後輩のおかげで勝てたラウンドでした。

 

*3:いや、どう考えてもディベートやってないで勉強しろよって話ですよね。当日コミとして参加したディベートのすすめ、予選の次の日が面接だったのは本当に草生えません。

 

*4:このザ関西の後に、成蹊の同期とKDSの後輩とICUTに出ました。クッソイキったチーム名で出場して、R6のバブルまでいきましたがそこで負けてしまう敢えなくブレイク落ちでした。でも予選を通して強いチームと殴り合えたりもしたので、悔しくもあり楽しくもある大会でした。